汗牛足vol.19 ラブレーが命懸けで出版した禁断の奇書

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.19 (2017.8.26発行)


◆16世紀の古典、その3

エラスムストマス・モアに続いて、今回はフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を取り上げます!

■フランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(渡辺一夫訳の岩波文庫または宮下志朗訳のちくま文庫)

〇概略

本書は全部で4巻ないし5巻からなる大作です。ジャンルは強いていえば小説。文庫本で結構な分量になります:

・『ガルガンチュア』(初版1535/決定版1542)

(あらすじ)巨人王ガルガンチュアの誕生と成長、近隣国との戦争と勝利、その論功行賞の結果誕生したテレームの修道院。

・『パンタグリュエル』(初版1532/決定版1542)

(あらすじ)ガルガンチュアの息子、巨人パンタグリュエルの誕生と成長、パニュルジュとの出会い、他国との戦争と勝利。

・『第三の書』(1545/決定版1552)

(あらすじ)パニュルジュが結婚すべきか否かで大いに悩み、種々の占い、夢判断、他人のアドバイスにすがるも解決せず。

・『第四の書』(不完全版1548/完全版1552)

(あらすじ)結婚すべきか否かに関して「聖なる酒びん」のお告げを求めて船出した一行は、数々の島を訪れるも見つからず。

・『第五の書』(1564)※ラブレーの死後に刊行、偽作の疑いあり

(あらすじ)一行は引き続き様々な島を訪れ、ついに「聖なる酒びん」の島に至り、「飲みなさい」との託宣を受ける。

〇読みどころの紹介

以下では偽作の疑いのある『第五の書』を除く4巻から、ぼくが読みどころだと思ったところを各巻一つずつに絞って紹介します。

・『ガルガンチュア』より〈テレームの修道院〉(52-58章)

戦争で大活躍したジャン修道士のために「テレームの修道院」が建てられることになったのですが、ラブレーはこれを当時の修道院とはことごとく正反対な修道院として描き、修道院制を皮肉っています。なかでも、とくに有名なのが、「あなたが望むことをしなさい」という、テレーム修道院のただ一つの規則です。もちろん、当時の規則でがんじがらめの修道院制とは対照的で、先進的で理想的な規則のようにも見えるのですが、どうやらそんなに単純な話でもないらしい。ぼくが読む限りでは、ラブレーは「自分が望むこと」が「みんなが望むこと」に転化する可能性をそれとなく強調していますし、その結果テレーム修道院では服装に関して新しい規則ができてしまいます。「自由意志」によって営まれていたはずの修道院がいつの間にか「全体意思」によって営まれるという逆説……なんだか意味ありげです。

・『パンタグリュエル』より〈パンタグリュエルの口中探検〉(32章)

筆者が巨人パンタグリュエルの口の中に入ると、歯が大きな岩山のように見え、牧場や森、それから都市までありました。そして、そこで筆者が初めて出会ったのは、「キャベツを植えているおっちゃん」だったといいます。おっちゃんに「ここは新世界なのですか?」と感想交じりの質問をすると、おっちゃんは否定し、「どうやらこの外には、新しい大陸だかがあって、太陽も月も拝めるし、なんだかおいしい仕事がたくさんあるとか。でも、こっちは古い世界なんでさあ」と答えます。なんでもない挿話のようですが、訳者(宮下志朗)は西洋中心主義をコミカルに諷しているという解釈を紹介していて、なるほどなあと思いました。当時は大航海時代でもあり、一般にアメリカ先住民は人間とも考えられていなかったような時代だったので、ラブレーは問題意識があったのかも?

・『第三の書』より〈借金礼賛〉(3-5章)

エラスムスの『痴愚神礼賛』、ルキアノスの『ハエ礼賛』と並んで三大逆説的礼賛と呼ぶ人もいるという、ラブレーの「借金礼賛」。パニュルジュという道化た登場人物いわく、「いつでも、だれかに借金しておかんとあきまへんのや。そうすれば、その方が、貸した相手の長寿と、しあわせな人生とを祈ってくれるのでございます。貸した金がパアになってはこまりますから、どのような集まりでも、あなたさんのことを持ち上げてくれまして、いつでも、新しい貸し主を見つけてくれるという寸法であります。」なるほど、そういえば現代社会は別の理由で借金礼賛したいんですよね。企業や個人が借金をして、投資するなり消費するなりして、お金の流れを生み出してGDPが上がればバンバンザイなんですから。借金礼賛がもはや逆説的ですらないマクロ経済学、それに基づいて政策が出される国家……きっとパニュルジュはこう言ってくれるはず:「どこぞの島ではマイナス金利なんてけったいなもんまでやってはるそうな。たぶんくるくるぱあになってしもたんやな。」

・『第四の書』より〈教皇崇拝族の島〉(48-54章)

キリスト教は一神教、その神は天上におられる。ところが教皇崇拝族は地上にもう一人神がおられるのだと主張します。その「地上の神」こそ、ほかならぬローマ教皇のことで、彼らは教皇さまの来島を心待ちにしているんですね。もし訪れられた場合は教皇さまにどうご挨拶するのか尋ねると、「われら、教皇さまのお尻に、葉っぱもあてずに接吻いたすでしょう。おふぐりにも、同様にいたす所存であります」と夢を語ります。そして彼らは教皇さまのかなり拙い肖像画を「地上における、神さまのイデー」と称し、毎年拝んでいるとのこと。その上、彼らは教皇教令集(教皇によって定められた教会法の法令集)を不可侵の行動規範にしています。この場面で、教皇教令集をその物理的特徴を利用して転用(ページをちぎってトイレで使うなど)する人たちがひどい目に遭う話が続き、それを「奇跡」と呼んで感嘆する教皇崇拝族が描かれています。すさまじくもユーモラスな教皇批判、さすがラブレーですね!

〇ラブレーの簡単な紹介。

ラブレー(1483?-1553)はフランス生まれ。父は弁護士で、本人は修道士だったようですが、40歳を過ぎてからなんと医学を勉強し始めました。50歳ごろから病院で勤務し、このとき『ガルガンチュア』の原型となる『ガルガンチュア大年代記』と、その続編である『パンタグリュエル』を書いています。やはり風変わりな人でした。

〇エラスムスとトマス・モア、そしてラブレーへ

エラスムスもトマス・モアもラブレーにとっては先輩でした。ラブレーはエラスムスをとても敬愛していたらしく、エラスムスあての書簡には「あなたの学識ある乳房で育った」と書いてあるそうですね。実際、本書を読んでいても相当エラスムスの影響を受けていることが分かりました。一方でラブレーはモアの『ユートピア』にも親しんでいたのか、『パンタグリュエル』ではユートピア島が登場します。しかもパンタグリュエルはガルガンチュアとユートピアの王さまの娘との間に誕生した子ども、という設定になっていました。エラスムス、モア、ラブレーの三者はみなギリシア語に通じており、古典教養に根差した人文主義者(ヒューマニスト)として、何か共通した気質を持っていたのでしょう。

前回、エラスムスとモアのカトリック教会に対する立場の違いについて少し取り上げましたが、ラブレーは明らかにカトリックに批判的な立場をとっていました。(だからといってプロテスタントだった、というわけでもなく、彼らをも揶揄しています。)したがって、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は生前から次々と禁書に指定されてしまっていますし、禁書になったラブレーの本を出版した人が焚刑に処されるという事件まで発生しています。

ここで注意してもらいたいのが、(1)今から500年前、1517年にルターが九十五カ条の論題を張り出し、それから宗教改革の動きが本格的になってきたということ、(2)これ以後プロテスタント側・カトリック側の双方の対立から、どちらの側でも信仰・思想の自由は一層脅かされるようになっていったこと(不寛容の時代)、(3)最後に、以前紹介した『痴愚神礼賛』、『ユートピア』は、いずれも1517年以前に出版されたのに対し、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』はそれ以後の作品であることです。以上のことから端的に言えるのは、ラブレーがカトリックを批判し、あるいは揶揄した作品を出版するのは、『痴愚神礼賛』の出版よりもはるかに危険な行為だったということです。もちろん彼には強力なパトロンがいたようですが、彼にとって『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の出版は、人文主義者としての矜持をかけた戦いだったのかもしれませんね。

◆あとがき

訳本には岩波版とちくま版がありますが、あいにくちくま版は一部品切れのようです。岩波版の渡辺一夫(故人)訳の方が先に出て、かねてより名訳の誉れが高かったので、他の訳が出てきにくい雰囲気でしたが、そんな中で2005年に宮下訳が出始めました。宮下訳はより現代風の調子がでていて、ぼくはこちらをメインにして読みましたが、やはり渡辺訳もすぐれています。ぼくの中で両者の違いが印象的に残っているところ(第四の書、第52章の一部)を引用しましょう。これはパニュルジュが教皇教令集を読んだがために便秘になった経験を語る場面で、引用される詩句です。

渡辺訳では漢文になっています:

汝不能脱糞十粒全一年
仮令雖以指粉砕之擦之
断不得穢汝指以汚臭物
所以堅牢勝蚕豆石塊矣

訳注には「全くの戯訳」とありますが、書き下し文はナシ!ぼくにはイマイチ意味がピンときません。

宮下訳を見てみるとこうなっていますね:

 一年間で十〇個も出ない、おまえのうんち
 たとえ手で、引っかいたり、擦ったりしても、
 うんちの跡で、指をばっちくすることもできまいに。
 おまえの糞は、ソラマメよりも、石よりも固いのだから。

なるほど、そういうことか、宮下訳を読んでからなら渡辺訳の面白さも分かってきました。渡辺訳と宮下訳を見比べながら読み進めるのも楽しそうですね。

コメント