汗牛足vol.30 自由意思なんかなくても意外と困らない?――驚きの哲学入門

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.30 (2018.6.16発行)


◆今回紹介するのはこの本です。

■戸田山和久(2014)『哲学入門』ちくま新書

『哲学入門』というタイトルですけど、「入門書」だと思って読むと痛い目に合います。というのも、まず新書のくせに400ページ強もあること!そして内容も一般的な入門者向けの哲学本とは一線を画していて、哲学史で有名な人たちはほとんど出てきません(ソクラテスもデカルトも出てこない。カントは登場したと思ったら即座に退場)。じゃあ何が書いてあるのかというと、うーん、実は私もまだよくわかっていないのです。この原稿を書いたら多少は分かるかも、という魂胆で書いているので、あんまりあてにしないでくださいねー。

内容は難しくてまだまだ消化不良なのですが、この本の基本的なスタンスは明快です。第一に唯物論。つまり、「この世はようするに、物理的なものだけでできており、そこで起こることはすべて煎じ詰めれば物理的なもの同士の物理的な相互作用に他ならない」という立場です。原子論はまさに唯物論ですし、そもそも一般に(現代)科学は唯物論ですよね。私などは逆に唯物論以外に何かあるの、と思ってしまうのですが、神や魂が実在するとする場合は唯物論と矛盾するでしょうし、よく考えればプラトンのイデア論やデカルトの心身二元論というのは唯物論ではないですね(どうりで彼らがこの本に登場しないわけだ)。

この本の二つ目の基本スタンスは自然主義です。これは何かというと、「科学的知見と科学的方法とを使いながら哲学し、また、哲学説も科学的知見によって反証されることを認める立場、言い換えれば、科学の一部として哲学をやろうぜという立場」だそうな。哲学は科学の成果を反映しよう、ということなので、この哲学は既製品などではなくて、現在も進行中の哲学、ということになります。

そして、唯物論と自然主義の立場をとるこの哲学が(本書で)対象とするものは何かというと、「ありそでなさそでやっぱりあるもの」、あるいは「存在もどき」、だそうです。これは、「大雑把に言えば、日常生活を営む限り、あるのが当然に思われるが、科学的・理論的に反省するとホントウはなさそうだ、ということになり、しかしだからといって、それなしで済ますことはできそうにないように思えてならないもの」です。

一例として、「意味」があります。私が今からあなたに電話して、「明日の天気は?」と尋ねたとしましょう。それを聞いたあなたは質問の意味を理解して、しかも明日の天気は晴れだとたまたま知っていたので、「晴れ!」と答えたとします(それぐらい自分で調べろ、というツッコミはナシで)。一方で私が音声アシスタントを使って「明日の天気は?」とケータイに話しかけて、「晴れ!」と返答を得たとしましょう。こうして私はあなたからもケータイからも自分の発した問いに対する同じ答えを得ることができました。しかしケータイは私の質問の「意味」を理解して返答したのでしょうか?少なくともあなたが質問の意味を理解したやり方と同じことをケータイがしたのではないですよね。音声認識や自然言語処理といった技術とネットへのアクセスがあればケータイは適切な答えをはじき出してくれるわけですから。

うん、ケータイの「明日の天気は?」に対する答え方は我々人間とは違う。彼らは質問の意味を分かって答えているのではない。でも待った。ケータイとは違うというなら、じゃあ私たちはどうやって「明日の天気は?」に対する答えを出しているのか。私たちがやっていることはケータイがやっていることとどこが違うのだろう?そしてどうして私たちは質問の「意味」を理解していると自認しているのにケータイは理解していないなどと判断するのでしょうか?

この問いに答えるにあたって思い出してほしいのは、私たちが唯物論の立場を取っている、ということです。私たちには意識があるけどケータイにはないからだよ、では答えになりません。意識というのも物理的な実体ではないからです。それに意識のないところに意味はないとも言い切れない。いったいこの「モノだけ世界観」からどうやって「意味」なるものが湧いて出たのか?私たちは「意味」というものがあると思って普段生活していますが、よくよく考えるといったい何なのかなんだかよくわかりません。しかしだからといって「意味なんてホントウはありません!」というのでは納得できない。じゃあ私たちがこれまであると思ってきた「意味」ってなんだったの、という疑問が解決しないからです。

このように、この『哲学入門』は例えば「意味」のような「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を、唯物論の立場から、モノだけ世界観のなかにどうやったらうまく描き込めるのか?という課題に取り組む本です。なおかつ、ちゃんと科学の成果を正面から受け止めよう、という現在進行形の哲学本です。そんなわけで、「意味」とは何か?の続きを知りたい方はぜひ本書を手に取ってくださいね。(ただし、「明日の天気は?」&ケータイという例は私の創作で、全く同じものが本書に載っているのではないです。)

本書で取り上げられる「ありそでなさそでやっぱりあるもの」は「意味」だけでなく、もちろん他にもあります。「機能」、「情報」、「表象」、「目的」、「自由」、「道徳」そして(オマケとして)「人生の意味」です。これらの中でも個人的に最も興味があるのは「自由」と「道徳」ですね。とくに自由意志の問題に関心があった私としては、この本を読んで自由意志に対する理解が深まった気がするので、それについて少し書いてみようと思います。ただし、「自由」や「道徳」がどうやってモノだけ世界観から湧いて出るのかについての話はほぼスルーするので、詳しくは本を見てください。

「自由意志」とは何かというと、とりあえずざっくりと「自由な意志」ということにしておきましょう。私たちはこの「自由な意志」によって自らの行動や選択を決めている、という認識はかなり一般的なものですよね。例えばAさんがBしたことについて「責任がある」とか「称賛に値する」というのは、Aさんが「自由な意志」に基づいてBした、という前提があります。裁判で有罪になるというのも、その人が犯罪行為に対して「責任がある」とされていることが必要ですよね。

一方で自由意志はない、とする議論も昔からあります。この世界の成り行きはすべて神が支配している、という「神学的決定論」はともかく、ニュートン力学の登場によってもたらされた物理学的な決定論が代表的です。「世界は普遍的・決定論的な因果法則に従っている」とか、「物理的世界で起こるすべてのことは自然法則によって容赦なく決定される」といった見方ですね。こうして世界の成り行きがあらかじめ決まっているのですから、「自由な意志」は幻想ということになります。また、私たちは唯物論の立場を取っているのですから、物理法則に左右されない「精神世界」のようなものはもちろん認めません。

しかし世界全体の成り行きはあらかじめ決まっている、という見方には異論もあります(量子力学を思い浮かべる人もいるはずです)。しかし論点はそこではなくて、自由意志を疑う十分な理由になるもう一つ別の決定論があるということです。

20世紀後半になって認知科学の成立とともに「われわれ(の心)が計算メカニズムだという考え方」が登場したといいます。これは、「われわれは、外部環境の情報(知覚)と内部状態の情報(欲求と信念)とを入力として計算を行い、その計算結果として行為を出力するシステムだ」という見方だそうです。ふむふむ、出力となる行為をy、入力となる外部環境の情報をx1、内部状態の情報をx2とすると、y = F(x1x2) というわけですな。って、おいおい、どこに自由意志の余地があるんだ?困りましたねえ。

「責任ある自由な行為主体と、認知計算メカニズムという、二つの自己理解の対立」というこの問題には、3つの立場があるそうです。(1)リバタリアニズム:人間の行為に関しては決定論は間違いで、われわれは自由を持つ;(2)ハードな決定論:われわれは決定論的システムであって、自由意志はない;(3)両立論(ソフトな決定論):われわれは決定論的システムであると同時に自由の担い手でもある。おもしろいなあ。あなたはどの立場がいいですか?著者にとって興味深いのは(2)と(3)だそうで、本書ではとくに(3)の説明が多い印象です。(え、(1)はどうなのよ、という人のために言っておくと、本書では割にあっさりボツ案になります。)

で、私はどの立場かというと、うーん、たしかに(3)の両立論の議論は大変興味深いし、賛成できる部分も多いのですが、いま最も魅力を感じるのは(2)のハード決定論、つまり自由意志はないという意見です!多分私に賛同する人はほとんどいないでしょうけど、以下、(2)の立場に立って、自由意志の認められていない社会、つまり「ポスト自由意志」社会について考えたいのです。なんだかSFチックでいいじゃないですか。

まず、自由意志のない世界は案外悪くないよ、という話。著者も言うように、「意志の自由と、政治的自由、思想信条の自由、結社の自由、移動の自由、職業選択の自由、奴隷的拘束からの自由などなどの市民的自由とが混同されて」しまうと、自由意思のない世界なんてディストピアだ、暗黒の世界だ、ということになってしまうのですが、そうではありません。自由意志の否定することはこれらの市民的自由を否定することとは一切関係がないのです。意志の自由はないが、市民的自由は保障されている社会もありえます。そして、そこでは意志の自由がないために責任を負うとか取らせるといったことはなくなりますね。「それはあんたの自己責任だ!」と突っぱねられることもなくなります。これはなかなかいいと思いませんか?むしろ本当のディストピアは、市民的自由が抑圧されている中で、責任だけは取らされる社会(自由意志は認められている社会)ではないかと。「だとすると、われわれの現実はもうすでにディストピアなのかもしれんよ」と著者が言うのももっともな気がしますね。

次に、自由意志はなくなっても案外困らないよ、という話。「自分たちは自由な責任の担い手であると思わなくなっても、自分が熟慮に基づいて行為を検討できる合理的行為者だという自己理解は捨てる必要がない」。これはすばらしいですね。私たちは私たちなりに考え、行動できる。そのこと自体は、たとえ自由意志を否定しても事実として残ります。私は自由意志でこのメールを書いているのではなかったとしても、別にどうってことはない。私は私なりに考えて作文しているだけですし、これも F(x1x2) の計算結果だよね、というだけの話。

自由意志を否定したら「非難に値する」とか「賞賛に値する」ということはナンセンスになる。とすると、私たちの道徳が脅かされるのではないか、という意見もあります。しかし、道徳的になされるべき行為、なされるべきでない行為がある、ということは自由意志の存在と関係ないのですから、道徳は残ります。自由意志がなくても道徳的に正しい行為を行うことはできるのです。むしろ、こうしないと非難されるかもしれないとか、賞賛されたいといった理由なしに、単にその行為が道徳的であるという理由から道徳的行為を行うのですから、ポスト自由意志社会の方が道徳の「純粋さ」が増すのではないでしょうか。私は自由意志を否定して誰かを非難したり賞賛したりといった面倒なことが省けた方がおおらかに生きられるのではないかと思いますね。

自由意志の負の側面。それは、「悪への罰という仮面をかぶった報復感情とか、賞賛を求めての偽善とか、歯止めのきかない自己責任論」。自由意志というのは決して諸手を挙げて歓迎できるようなものではありません。私がもっとも危惧するのは、自己責任を強調すればするほどなぜ彼はそのようなことをしでかしたのか、という問いが消滅することです。A君がBした。だからAは悪い。そうかもしれない。しかしA君はなぜBをしたのだろうか。何かA君がBせざるを得ないような事情はなかったのだろうか。どうやったらA君がBすることを防げただろうか。そこを考えることが大事だと思うのです。

もう少し具体的な例を挙げると、コンビニ強盗の犯人Aが逮捕されたとしましょう。裁判にかけられて有罪となり懲役刑をくらうことになったとします。Aはコンビニ強盗という犯罪を自由意志によって行ったのだから当然です。しかし、これで一件落着、めでたしめでたしでいいのでしょうか。これではAの犯罪の背後にある問題が手つかずなままです。Aが貧困に苦しんでいて刑務所生活よりもひどい暮らしを送っていたならどうでしょう。Aを懲役刑に課すことは問題の根本的解決とは程遠いですね。Aが刑務所から出てきたとき、自分の家もなければ仕事も財産もなく、頼れる身内も知人もいないなら、おそらくそう遠くない日にAは再び刑務所に入ることでしょうから。

よし、自由意志と犯罪の話をしましょう。自由意志を否定して責任が問えなくなるなら犯罪者が野放しになるじゃないか、という意見もあると思います。確かに、犯罪者は自由意志で犯行に及んだのではないですから、刑罰を科すことはできません。しかし、反社会的行為に及んだ以上、社会秩序維持のために彼に対して何らかの処置をすることは可能であって、必ずしも野放しにするわけではありません。そこで問題は、このハード決定論と矛盾しない犯罪者の扱い方とは何か、ということですね。結論から言うと、犯罪者に対して自由意志なき社会がとれる対応は社会からの隔離と更生のみです。(身体刑や生命刑(死刑)は社会を守るという目的のために必要でもなければ正当でもありません。)

私が思うに、ポスト自由意志社会における犯罪者への対応は、故障や事故を起こした工業製品への対応と似ているのではないでしょうか。何か製品が故障しても、私たちはその製品自体を「罰する」ようなことはしませんよね。壊れたなら修理したいですし、修理する以上は原因を解明して再発を防止する、というのが本来です(買い替えるというのはナシで)。犯罪者についても、反社会的行為を起こさないように更生させることはしても、「罰する」ことはしないのです。そしてその更生のために、犯罪行為の背景にあった原因(貧困、失業、教育、精神病、その他)を解明して再発防止のための手立てを打つ(更生プログラム、出所時の住居と仕事の提供など)というのが本筋になります。

自由意志を否定することは、犯人に対する対応を刑罰から更生へと転換することでもあると私は思います。ポスト自由意志社会においては、犯罪は犯人がしたことというよりも犯人に「起こった」ことである以上、犯人になぜそのようなことが「起こった」のか、を調べるとともに、再びそのようなことが起こらないようにする、ということが本質的に求められるからです。一方で、犯罪は犯人の自由意志に基づいて実行された、という前提に立っている現在の社会では、犯罪者の更生や社会復帰は、刑罰を下すうえでは本質ではありません。ある人が刑法などの法規に規定された行為を行い、その行為を行う正当な理由がなく、責任がある、という要件を満たせば犯罪人として処罰するだけです。つまり、自由意思のある社会において、犯人への対応として社会が求めることは、犯罪に対する刑罰以上のものではなく、犯罪者の更生は必ずしも求められていないということです。私は、犯罪者に対してなされるべきことは刑罰ではなく、更生と社会復帰であると思っているので、自由意志の否定によって刑罰から更生へと本質的な転換ができることは大変魅力的だと感じています。

◆おわりに――袴田事件再審取り消しについて

ここ1週間で一番大きなニュースは何かといえば、誰もが「米朝首脳会談」と答えることでしょう。異論の余地のないところだと思います。今まさに歴史が動いている、という感慨がありますし、大変興味深いニュースなのですが、ここで触れておきたいニュースは6月11日の東京高裁による袴田事件の再審取り消しです。そもそもこの事件は、犯人とされた袴田さんに対する一日平均10時間を超える暴力を伴う違法な取り調べ、証拠写真のねつ造、証拠品のズボンのタグについての証言のすり替え、そして何より物証の5点の衣類のねつ造(の極めて強い疑い)からして無茶苦茶で、これぞ日本の刑事司法の後進性を最も雄弁に語る事件の一つだと思います。証拠品・自白ともに不合理な点だらけで、「疑わしきは被告人の利益に」に忠実であったなら異論なく無罪のはずですが、何をどうやったらそうなるのか死刑判決が下されました。そして40年強に渡って死刑の恐怖に苛まれる日々を過ごした袴田さんは次第に精神に支障をきたすようになってしまいました。国家権力の個人に対する著しい人権侵害以外の何物でもないのですが、再審の壁は袴田事件についても例外なく高くそびえたっています。

第一次再審請求は1981年になされてから最高裁が特別抗告を棄却したのが2008年。再審を請求してから最終的に再審しないと決まるまで27年もかかっています。次の第二次再審請求は2008年になされて、2014年には静岡地裁が再審開始を認め、袴田さんを釈放するという決定が下されました。このときの決定は証拠がねつ造された可能性に言及する画期的なものだったのですが、検察が高裁に即時抗告を行ったために再審するか否かは先送り。そして今回高裁は無罪の証拠であるDNA鑑定が信頼できないとして地裁の決定を取り消した、というわけですね。率直に言って、再審するかしないかでこんな不毛な論争が何十年も続いていること自体呆れますし、特に今回の高裁の決定は「疑わしきは検察の利益に」を体現したあさましいものですね。袴田さんは現在82歳だそうで、一刻も早い再審開始と無罪判決が望まれるのは言うまでもありません。日本の再審制度が機能不全なのは明らかで、「疑わしきは被告人の利益に」の理念に立ち返った改革がなされるべきだと心から思います。

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