この記事は2023年10月にサービスが終了した読書サイト『シミルボン』に投稿していた記事である。ボクの日記から推定すると、記事の公開は2021年1月頃。
19世紀ロシアの作家ニコライ・ゴーゴリの作品3作を読む。
「外套・鼻」は6年ぶりに再読。当時はB5ノート5ページにわたって感想を記すほど興が湧いたが、今回は割に冷静に読んでしまった。
鼻
「鼻」は床屋の朝食から生身の鼻が出てきたかと思えば、その鼻が独り歩きして紳士として振る舞ったりするなど荒唐無稽だが、一つの思考実験として面白い。
官職を求めてペテルブルグに滞在中で、プライドが高く大の女好きのコワーリョフにとって、鼻がなくなるという事態は社会的な死を意味した。鼻を失った彼がいかに狼狽し、自らの鼻を取り戻した時にいかに狂喜したか。その描写を通して作者は俗物根性の醜悪さを白日の下に晒している。
鼻がなければ見た目は最悪で<鼻が折られる>が、立派な鼻を取り戻すと<鼻が高く>なってかえって<鼻に掛けた>振舞いをする。もしも彼が現代日本に生きていれば、コロナ禍のマスク習慣のせいで自慢の鼻を露出できずさぞ悔しがることだろう。しかしコロナ禍が落ち着いてマスクをしなくてよくなれば、以前にもまして増長するかもしれない。しかし、その卑小さを<鼻で笑う>資格が自分にあるのかは自信がない。
外套
「鼻」のコワーリョフと違って、「外套」の主人公、アカーキイ・アカーキエウィッチは世俗的関心とは無縁の平和な生活を送っていた。しかし、もはや繕うことができぬまで着古した外套をやむなく新調する必要に迫られたことが、彼の人生を狂わせる。独身の彼にとって新調された外套は人生の伴侶とでも言うべき存在であったが、外套は彼を世俗的醜悪さの渦巻く世界に引き込んでしまった。
人間の内心にはいかに多くの薄情なものがあり、洗練された教養ある如才なさの中に、しかも、ああ!世間で上品な清廉の士とみなされているような人間の内部にすら、いかに多くの凶悪な野性が潜んでいるか
引用した一節こそ、作者が本書を通して告発したかったことだろう。こうした人間の醜さから離れたところで生活していた主人公を、「凶悪な野性」に暴露させたのは外套であり、その外套を新調させる事態に陥らせたのはロシアの凍てつく寒さであり、言うなれば<運命>である。この小説はその哀れな運命を活写する筆の巧みさにおいて、ゴーゴリの作品中でも群を抜いていると思う。
検察官
こちらはゴーゴリによる喜劇。しかし全く笑えなかった。作品を読む前に訳者解説を見ると、「この喜劇が印刷に付せられたとき、植字工や校正がかりが、笑いの発作に圧倒されて、仕事の進行を妨げられたというのは、有名な逸話として残っている」とあったので、どんなに面白い作品なのかと期待し過ぎた。
都会から来た官吏のフレスターコフ青年は賭け事で文無しになり、田舎宿に泊まりながら宿代を踏み倒していた。その彼を行政運営の抜き打ちチェックに来た<検察官>と勘違いした田舎町の町長以下お偉方が慌てふためいて体裁を整え、おもてなしをする。フレスターコフは相手の勘違いを利用し、自分がさも大物であるかのように吹聴して金を無心したあげく、とんずらする。正体を知った町長以下が地団駄を踏んでいるところに、本物の<検察官>が到着する。
話の筋は面白いのだが、やはりゴーゴリの関心事は人間の虚栄や阿諛追従、傲慢や偽善、僻み、妬み、恨みつらみといった人間の醜さを描くことにあるように思われる。そして私はそこに救いを見いだすことができなかった。
結局、ゴーゴリはこれらの人間の負の側面を受け入れて開き直ることのできない人だったのだろう。彼は晩年には狂信の徒となり、断食の末に凄惨な死を遂げた。ゴーゴリ的笑いの世界が人間に対する絶望に裏打ちされていたとすれば、なんとも空恐ろしいものを感じる。
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