汗牛足vol.2 僕の読書に役立っている三冊、その2

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.2 (2016.4.16発行)


前回は「読書」をテーマとして僕の高校時代に役立ったと感じる3冊を紹介しました。そして今回のテーマは、というと、残念ながら(?)前回と同じです。(できれば変えたかったのですが……次回は必ず変えます。)ただ、紹介する3冊の中でとりわけ前半の2冊はかなりの良書だと思っています。この春に読んだのですが、ぼくのこれまでの読書に対する認識、考え方といったものが甘かったということがよくわかりました……もっと早く読んでおけばよかった、というのが率直な感想です。ただこの2冊の本のレベルと言いますか、負荷の大きさと言いますか、知的体力を消耗するという点で前回の3冊を上回っているということはあらかじめ断っておきます。

■『本を読む本』/M.J.アドラー他/講談社学術文庫

著者はアメリカの哲学者、教育家。原題は「How to Read a Book」で、第一版は1940年米国で発行、以来各国語に翻訳され日本語訳もこのジャンルとしては異常なペースで売れ続けているロングセラー。内容を一言で言うと、「読むに値する良書を知的かつ積極的に読むための規則」。つまりは読書の方法論です。

ところで読書の方法を扱った本としては

『読書術』/加藤周一/岩波現代文庫

『本はどう読むか』/清水幾太郎/講談社現代新書

『読書術』/水田洋/講談社現代新書

など日本人著者による本もあります。これらの本は読みやすいです。しかし『本を読む本』を読んだ人にとっては、少なくとも読書のやり方、方法を考えるという点ではいずれの本もほとんど魅力がありません。何が違うかというと体系性の有無です。別な言い方をすれば上記三冊は雑誌に連載してあっても違和感のない内容です。しかし『本を読む本』はこの一冊が一つのまとまりであって、一つの体系として閉じています。結果として読みやすさの点では上の三冊のほうが読みやすいですが、内容の濃さ、充実度でいえば『本を読む本』がはるかに上をいきます。むしろそもそも次元が違うといったほうがいいでしょう。

内容を少し詳しく紹介します。(といってもこの本の目次はかなり優れているのでそれを見てもらったほうがいいかも。)まず文学作品を除くものについて、情報を得るための読書と理解を深めるための読書について分け、後者を実践するために四つのレベルを考えます。

第一のレベル、「初級読書」では文の理解を目指します。その文が何を述べているか理解することです。小学生でもできますが、基礎として欠かせないものであり、意外とバカにならない問題です。

第二のレベルは与えられた時間に本の内容をできるだけしっかり把握することを目指す「点検読書」です。これはさらに二つのタイプ――組織的な拾い読みと表面読み――とに分けられます。前者は本屋で手に取った本を買うかどうか判断するため内容を把握するのに使え、後者は難解な本を読むときに途中で挫折せずにできるだけ全体を把握するのに使えます。第四までのレベルの中でぼくが最もおろそかになっているものでした。

第三は「分析読書」、本と格闘し、自分の血肉となるまで徹底的に読み抜くことが目的です。その規則は100ページ以上にわたり段階を踏んで述べられています。(いささかくどいきらいがあります。)規則に従えばその本を正しく批評し、自分の意見を戦わせることができるようになるはずです。

最後のレベルは一つのテーマについて複数の本を相互に関連付けて読む「シントピカル読書」です。これができるためには第三までのレベルがすべてできていなければなりません。そのうえ単に本の内容を丁寧におさえるのではなく、自分が何を必要とし、それがどこにあるか、という観点に立って、多くの資料を主体的に利用していく態度が必要になります。

そのほか積極的な読書をするための工夫(問題意識の持ち方、書き込みの方法など)や、文学作品についてもジャンル別に言及がなされています。とくにぼくがやってみたいと思ったのは、本の空いているページなどに自分なりのその本の大要を書いたり、いつかまた見返したいページとその内容をメモって自分専用の索引を作ることです。今までは読んでいる最中に本文に線を引いたり余白に少し書き込みをする程度でしたが、読書後にこうした作業をすることはその本を本当の意味で自分のものとするためにとても効果的だと思います。

以上で見てきたように、この本は自分の「理解を深めるための読書」を実践するため段階やレベルを踏んで読書の規則を丁寧かつ体系的に提示し、文学作品や読み方の工夫も取り上げています。これほど本の読み方をよくまとめた本はぼくの知る限り他にはありません。しかし、四つのレベル分けは納得のいくものでしたが、それぞれのレベルにおける規則はちょっと過剰なところがあるという印象は否めず、この紹介でも割愛しました。換言すればちょっとおせっかいなところがあります。したがって、これらの規則に縛られず、もう少し自由な立場から、部分的な応用を目指すという態度が妥当ではないかと考えます。結局のところ最後は自分なりに工夫をしないといけないと思います。

■『読書と社会科学』/内田義彦/岩波新書

現代は情報で溢れている、情報の氾濫、情報の洪水という言い方がよくされますし、実際そうだと思います。そして、そのような時代には自分に必要な情報を拾い、他を捨てるスキルを身につけねばなりません。この本は30年以上も前の本ですが、この点は書かれた当時も今も同じです。そして「情報に流される事態から情報を使いこなす状態に変えなければならない」という観点に立って、「読書と社会科学」のあり方について考える――それがこの本の大まかな内容です。

とはいっても、「情報を得るための読書」について述べた本ではありません。そうではなくて、「情報を受取る眼を養うための読書」を実践するための本です。ここで、「情報を受取る眼」というのは「自分の視点」ともいうべきもので、これがなければ「氾濫する情報は、自分を押し流すだけで、自分の情報になって」きません。

「本でモノが読めるように、そのように本を読む」――「新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る眼の構造を変え、情報の受取り方、何がそもそも有益な情報か、有益なるものの考え方、求め方を――生き方をも含めて――変える。」そのような「読み」を目指すのが本書です。

ではどうすればそのような「読み」ができるのか。それには二つの「信」が必要だと言います。一つ目は、「ここにはたしかに私にこう読めることが書いてあるけれど、それはどうしても変だという、自分の読みに対する信の念」です。なんとなく変だなあ、と心のどこかで思っているのではいけません。ここはたしかに変だ、と自信をもって疑うことができて初めて、問題を問題として認識し、取り組むことができます。

二つ目は、「Aさんほどの人が出たらめをかくはずがないというかたちでの、著者に対する、これまた信の念」です。一つ目の信があっても著者に対する信がなければ、たとえ本文に対する疑問が起こっても、著者の思い違いだろう、と流してしまうことになります。読み飛ばしや粗読につながりかねない、というわけです。

ぼくはこの「読み」は著者との格闘だと思います。しかし野蛮な戦いではなく、紳士的で知的な格闘です。著者は本という一つのまとまった形で主張してきます。自分はそれに対していったんは仮にその主張を受け入れなければなりません。結局高校までの国語の授業というのは著者の主張を正確にとらえることを目的にしていました。しかしそれでは創造的な動きは生まれていません。不十分この上ない。まずその著者の主張を仮に受け入れたうえで、著者はこういっているが自分はどうなのか、と自分の主張と戦わせるという段階に持ち込まねばなりません。そうして初めて生産的な読みが可能になります。そうして初めて自分の主張――ものの見方――が謙虚さや柔軟さを増して深化していきます。

著者を妄信しても、自分を妄信してもいけない、どちらも信じつつ、どちらも疑う、というところにこの「読み」の難しさがあるでしょう。しかしこの「読み」はけっして読書だけでなく、芸術や学問にもあてはまるものだ、と著者は言います。ここでは学問について、少し引用します。

「学問の研究(勉強)とは、何かでき上った学問を研究するのではなくて、学問によってこの眼の働き――一般に五感の――不十分さ、至らなさのほどを自覚し反省して、その(この眼の)機能を高めながら、対象であるもの、あるいは事象を研究する。それが学問のあり方、方法でもあり、効用でもあります。」

これを読んだ後で「学問」を辞書で調べるとガッカリします。たいていの辞書には学問とは、「知識を学ぶこと」というようなことが書いてあります。逆にそれしか書いてません。ぼくは知識を学ぶだけでは満足できないですね、そのうえで自分のものの見方、認識がより高次のものとなるようにしたい、と思うようになりました。

著者の専攻する学問は経済学(社会科学の一つ)です。読書から学問に話が進んだ後、社会科学の立場からこの「読み」を実践します。「本のなかに「学説の構成要素」として存在している概念装置を、この眼でものを見る「認識の手段」――社会科学の学説を理解する手段としてではなくて、この眼でものを社会科学的に見るために必要な手段――として獲得する、そういう目的意識を鮮明にもって本をよもう、というわけです。」

その実習として「自然法」という概念の獲得と応用をしています。ここでは割愛するので興味があれば読んでみてください。「法」というものについての見方、認識が自分の中で大きく変わるのを実感できるはずです。

内容をたどるのはここまでにして、最後に、前回紹介したショーペンハウアーの『読書について』とからめてみたいと思います。そう、「これこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。」と言った、あの本です。ぼくは今回の『読書と社会科学』をよんでようやく、前回の『読書について』をもっと深く理解できた気がしました。「熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。」という言葉をもっと実践できるかたちで捉えることができるようになった、と思うのです。『読書と社会科学』は『読書について』の実践編とも言うことのできるぼくの知る唯一の本です。

■『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』/立花隆・佐藤優/文春新書

この本を取り上げたのは付録の「立花隆による「実戦」に役立つ十四カ条」が素晴らしかったからです。これは何かというと「仕事と一般教養のための読書について」心得ておくべき十四カ条です。実はこの十四カ条というのは他の本にも書いてあることばかりなのですが、それらをいざ集めるとなると難しく、これほどシンプルに提示してくれるのはありがたいです。ここでは十四カ条のうちぼくが勝手に選んだ三つを紹介します。

(3)〔本を買うときに〕選択の失敗を恐れるな。失敗なしには選択能力が身につかない。選択の失敗も、選択能力を養うための授業料と思えば安いもの。

(5)読みさしでやめることを決意した本についても、一応終わりまで一ページ、一ページ繰ってみよ。意外な発見をすることがある。

(14)大学で得た知識など、いかほどのものでもない。社会人になってから獲得し、蓄積していく知識の質と量、特に、二十代、三十代のそれが、その人のその後の人生にとって決定的に重要である。若いときは、何をさしおいても本を読む時間を作れ。

(3)については、まず本はお金を惜しまず買うことが前提となっています。ぼくは、お金は惜しみますが本はできるだけ買って読むことにしています。特に若い時期には書籍は最も優れた投資先であると思っているからです。しかし、ぼくのような少数の人間を除けば、今日の日本の学生は本を買うことはおろか、本を読むこともしない人が多いでしょう。読んでいるにしても暇つぶしや娯楽に近いものがあります。ぼくの持論では、読書習慣の有無は決定的な違いですが、本を読む人の中でも、(自分のお金で)できるだけ買って読む人は、(経済的余裕がないわけではないが)ほとんどを借りて済ます人とは一線を画しています。理由は簡単、買うときは借りる時よりも真剣に、それなりの理由をもって本を選ぶからです。読む本が必然的に違ってきます。ただ、そのときに慎重になりすぎることがあります。とくに慣れないうちは失敗も多いですが、長い目で見れば決して損ではないから、ぜひこの文句を思い出そう、というわけです。

(5)はちょっと意外に思っていたのですが、むしろぼくの読書を反省させるものでした。ぼくの反省事というのは、読んでいる途中で挫折してそのままになっている本、買ったもののそのままになっている本(いわゆる“積ん読”か?)が読んだ本よりたくさんある(!)ことです。最近になってようやくこれを改善すべきだとの認識に至ったのですが、こんな事態が生じたのはなぜか。端的に言うとぼくは本の内容や価値を短時間で見極める能力に欠けるからだと思います。今回の一冊目の『本を読む本』で言えば、「点検読書」――与えられた時間に本の内容をできるだけしっかり把握すること――が大してできていないからでしょう。そこでこの(5)はひとまず“積ん読”解消のヒントになりそうです。

(14)は社会人になっても読書の時間を持て、ということですね。知識の質と量を深めるためにはこの本で紹介されている400冊は大いに参考になるでしょう。内容紹介を忘れていましたが、この本は「知の巨人」「知の怪物」と呼ばれる両氏の対談(テーマは雑多です、だから雑談ともいえますがただの雑談ではありません。)にそれぞれが200冊ずつ本の紹介をつけたもので、対談、紹介本ともに幅が広くレベルが高い。ここで紹介されなければ敬遠してスルーしたくなる本が多いです。

◆あとがき、または雑談

片道2時間かけて大学に通う生活が始まりました。往復4時間です。朝早ければ6時半に家を出ます。(眠い。)しんどいですがそのうち慣れると信じて当面がんばるつもりです。ぼくの一日の活動時間を仮に16時間とすれば、その1/4が移動時間に費やされることになります。ぼくはこの時間をできる限り読書に当てようと奮闘していますが、それがけっこうむずかしい。ちっとも思うようにページが進みません。(読書環境に向いてないから。)目標は片道で並の新書一冊を処理することでしたが当分できそうにないです。今回紹介した本で言えば前半の二冊は読むのに難渋した本で、片道ぐらいではすこしも読めません。それだけ内容が濃かったというべきでしょう。この「汗牛足」でこれらの内容をいくらか紹介しましたが、内容を消化しきれていないぼくの書いたものですから、よければぜひ本そのものを読んでください。

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