先日明石城に行く機会があったのでその記録。GWの2日目ということもあり、「肉フェスタ」なるイベントもやっていて大変賑わっている。しかしボクの目当てはフェスタではなく、春期に内部公開されている巽櫓だ。城の南側から見たときに2基の三重櫓が並んでいるがそのうち右側の櫓である。
見ての通り明石城巽櫓下の石垣は相当な高石垣である。明石城の築城開始は1619年とかなり遅い。大坂城の豊臣氏は夏の陣(1615年)で滅び、徳川家康亡き後、二代将軍秀忠が西国諸藩に対する備えとして、小笠原忠政*に新城の築城を命じたことが明石城の発端である。石垣の隅部は算木積みという安定性の高い完成された技法で積まれており、それが明石城の整然たる趣につながっている。瀬戸内式気候の清々しい青空と新緑、そして花崗岩の美しい石垣と漆喰塗りの櫓、これぞ堂々たる名城の風格である。
*小笠原忠政は信長と家康のひ孫というすごい血筋の持ち主である。晩年に忠真と名を変えている。
明石城の見どころと言えば何より現存する二基の三重櫓であろう。「三重」とは屋根が何重になっているかを数えるもので、櫓の場合は三重が最多の重数であって、四重以上のものはない。日本全国に12しか現存しない*三重櫓のうち2つがこの明石の地に聳えており、どちらも国の重要文化財に指定されている。そして私の知る限り、内部が一般に公開されている三重櫓は明石城だけである。
*例えばこのページにまとめられている。
明石城にはかつて、本丸の北東に建つ艮櫓、南東の巽櫓、南西の坤櫓、北西の乾櫓の4基の三重櫓が存在していた。これがいかに豪勢であるかは香川県の丸亀城と比較してみれば分かる。丸亀城には三重の天守が現存しているが、他に三重櫓は建てられなかった。言ってみれば、明石城には丸亀城天守が4基も立ち並んでいたようなもの*で、おまけに巨大な天守台まで存在しているのだ。天守台はあっても天守は建てられなかったそうだが、これには1615年に幕府が武家諸法度を公布して城の新造や増改築が禁止されて以降、天守は再建を除いて原則新造されなくなり、代わって三重櫓を天守の代用とすることが一般化した、という事情もある。
*丸亀城天守が軒高15mで、一方の明石城坤櫓が13m強であることを考えると盛りすぎという批判はあるかもしれない。
明石城に天守はないが、天守代用の櫓とされたのが本丸南西の坤櫓である。私に言わせれば、丸亀城や弘前城の御三階櫓を天守と称するのであれば、この坤櫓も天守と呼んでよいようなものである。坤櫓についてはいろいろと語るべきことがあるのだが、その前に今回内部に入ることができた巽櫓について記さねばなるまい。
巽櫓で特筆すべきは城外側から見た場合と城内側から見た場合で印象が大きく異なることだ。城外から見ると、千鳥破風と唐破風で装飾された層塔式の三重櫓としてこれ以上のものは考えられないほどの端正な雄姿を見せているのだが、城内側から見ると、なんと”のっぺらぼう”なのである。
実は、これこそが天守と櫓を分ける指標で、籠城の際に城主が立て籠ることも想定される天守の場合は全方向に窓が設けられるのに対し、櫓の場合は兵士が城主の居住空間を見下ろすことがないように城内側に窓を開けないことが原則となっている。
さて、いよいよ今回のお目当てである巽櫓の内部見学(無料)であるが、残念ながら見学できるのは1階部分のみで2階、3階に上がることはできなかった。まあ勾配の急な階段を大勢が上り下りすると事故の元でもあるし、建物の傷みも早くなるであろうからやむを得ない、という気もする。
内部は2面に窓が開いていてそれなりに明るい。身舎の柱間に設けられた筋交いが目立つが、これは明治期の修理で補強として加えられたもの*のようである。その際、補修材は当時本丸北西に残っていた乾櫓を解体して調達したというから、解体せずに残してくれたらよかったのにと複雑な気分になる。
*兵庫県(2020)「史跡明石城跡保存活用計画」p.23
ちなみに、巽櫓はかつて明石城の南西にあった船上城の部材を用いて建設し、坤櫓は京都の伏見城から移築したと伝わる。しかし、明石城は築城後10年ほどで本丸が火災により焼失しており、この時に両櫓とも被害を受けて建て替えられたようで、当初の部材は残っていないようだ。
さて、巽櫓を出て西に進むと天守代用の坤櫓が見えてくる。坤櫓は巽櫓と違って、城内側に窓が設けられている。これこそ、この櫓が単なる櫓ではなく、天守代用の櫓として別格の位置を与えられていたことを示すものだ。
ここで面白いのは、東面のニ重目の破風が唐破風と千鳥破風の「二重破風」になっていることである。なお、唐破風は軒先をもっこりと持ち上げた曲線美のある飾り、千鳥破風は三角状の飾りを指す。これは相当に珍しく、私の知る限り他の城では見られないものだ。4基の三重櫓の中でもこの櫓は特別なのだということを示したかったのだろうか。
しかし二重破風のある東面とは違い、西面を見てみると一重目に唐破風、二重目に千鳥破風を配していて、いたって普通な印象を与える。お気づきかもしれないが、この構成は巽櫓の南面と同一である。西方諸国に対する備えとして築城されたというだけあって、この天守代用櫓は西を向いて睨みを利かせているのだ。
城内側に窓が設けられ、二重破風まである坤櫓は、明らかに天守代用の櫓だ。なのになぜ現存十二天守に含められていないのか?同じく天守代用の弘前城や丸亀城の三重櫓は「天守」と見なされているにも関わらず、である。その答えは、明石城には立派な天守台が存在しているから、であろう。巨大な天守台があるのにそれとは別に建っている櫓を「天守」と呼べば、それは明らかにウソになってしまう。
天守台は東西25m、南北20mで、熊本城の天守台に匹敵する規模だという。天守を建てようとも思っていないのに天守台だけ作るというのはおかしな話であるから、少なくともある段階までは建てる計画があったのだろうが、何かの都合で頓挫してしまったようだ。どんないきさつがあってこうなったのかはとても気になるのだが、ざっと調べた限りよく分からない。
仮に天守台がなかったとしても、坤櫓を「天守」と称するのはなかなか受け入れられないかもしれない。なぜなら、ほぼ同規模の巽櫓が並んで建っているからだ。特に城の南側、明石駅からは、ほとんど同じ櫓が2つあるようにしか見えない。実際は坤櫓の方が巽櫓よりも平面規模も大きく、軒高も70cmほど高いのだが、城の南側から見ると、巽櫓は棟木と並行する長辺、坤櫓は棟木と直交する短辺を向けているために、全く同規模に見えてしまう。やはり、もともと坤櫓は天守代用にする計画もなかったために、他の三重櫓と差をつけることも考えていなかったのだろう。
こうして、明石城の坤櫓は天守ではなく、あくまで櫓という扱いのまま今日に至っている。でもボクは内心、この櫓を13番目の現存天守に数えたくて仕方がないのである。
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