エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』を読む その1――社会をモノのように扱う

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この記事は2023年10月にサービスが終了した読書サイト『シミルボン』に投稿していた記事である。ボクの日記から推定すると、記事の公開は2020年11月頃。

デュルケムの『社会学的方法の規準』(1895年)を読む試みです(第1回/全3回)。

エミール・デュルケム(1858-1917)といえば『自殺論』が有名であるが、中公文庫で買ってまもなく字の大きな新装版が同文庫で出版されたショックで放置したまま、読んでいない。最近自分の中で社会学への関心が俄に高まり、社会学の始祖の一人として著名なデュルケムの方法論的アプローチを示した代表作として本書が読んでみたくなった。読んでからかなり経ってしまい、何が書いてあったか大分忘れてしまったが、社会的な現象をモノのようにして扱う、というテーゼと、犯罪は必要ですらあるという新奇なテーゼ、および、社会を科学的に探究するための方法論的考察への真摯な姿勢が印象に残っている。以下、復習。

第一章 社会学的事実とは何か

本書の主題は社会学的事実の研究に相応しい方法がどのようなものであるか、ということだが、それに先立って社会学的事実なる語の指示内容を明らかにする。社会学が対象とするのは社会のうちに生起する諸々の現象すべてではなく、「他の自然科学の研究している現象からきわだった特徴をもって区別される、ある一定の現象群」である。では、そのような現象群ないし事実とは何かというと、「行動、思考および感覚の諸様式から成っていて、個人にたいしては外在し、かつ個人のうえにいやおうなく影響を課することのできる一種の強制力」(p.54)であり、「集合的なものとして把握された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行」(p.59)によって構成される。

社会的事実の具体例としては、コロナ禍にあってマスクの着用を想起せざるをえない。コロナ以前では、マスクをしていると具合が悪いのかと尋ねられる場面が少なからずあったが、今となってはマスクをしないで話しかけると眉を顰められかねないような状況にある。私は夏にマスクをすると蒸し暑くてうっとうしいと感じ、感染予防の有効性についても疑問に思っているので、できることならマスクをしたくはない。しかしそれでも公共の空間でマスクを着用しているのは、まさに外部からの「強制力」とでもいうべきものを受けてやむにやまれずそうしているのだ。

第二章 社会的事実の観察にかんする諸規準

第一の規準:社会的諸事実を物のように考察すること

この章でデュルケムはコントやスペンサーといった先行の「社会学者」の方法論に異論を唱えている。彼によれば、先行の社会学は観念ないし概念を研究対象としてしまい、「科学的」に社会学的事実を捉えることに失敗しているという。そこで、社会的事実の探求のために次のような規準を提示している:

社会諸現象は、それらを表象する意識的主体から切り離して、それ自体において考察されなければならないのだ。すなわち、外在する事物であるかのように、外部から研究されなければならないということである。(p.91)

社会的事実は物として扱うというテーゼは、観念や概念が研究対象ではない、ということと表裏一体だ。デュルケムによれば国家や主権、民主主義といった概念も科学的に構成されていないものである限り、使用を自制すべきだという。

第一の規準の系にあたるいくつかの規準

デュルケムは人間の認識力には限界があり、しばしば真理を見誤りがちであるため、厳格な規律に服す必要があると説く。そしてそれらを3つの規準に定式化している。

一つ目は、すべての予断を系統的に退けること。感情を排して、理性的、分析的なアプローチが求められるということだ。当たり前のように聞こえるが、社会学の場合には自分の政治的・宗教的信念や道徳の問題と接する場合が多く、科学の場合と異なり、感情が入り込んでしまいやすいという。

二つ目は、研究の対象となる特定の現象群について定義を与えることで、何が問題なのかを自他ともに明らかにすること。この際、感覚を通して把握可能な外部的特徴を定義として与えることが重要だと言う:

科学は、客観的でありうるためには、感覚を経ないでつくられた概念からではなく、感覚によってつくられた概念から出発しなければならない。(p.114)

とはいえ、議論の出発点となる定義づけに関わる感覚も、主観的なものになりやすい。そこで、対象からより客観的に特徴を抽出するにはどうすればよいかという問題に関して、三つ目の規準が提示される:

社会学者は、なんであれ、ある種類の社会的諸事実の研究を企図するにあたっては、それらの個人的な諸表現とは別個のものとしてあらわれてくる側面から、これを考察するようにつとめなければならない。(p.117)

例えば、彼が『自殺論』で展開した議論はまさにこの規準に沿ったものとして捉えることができる。ある個人が自殺した例を取り上げ、その原因についてその人の気質や経歴といった個人的な事柄を考察するというのではなく、自殺を社会的な現象として、大局的に考察する。これが客観的であることを志向する社会学的なアプローチだというわけだ。

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