死せる<魂/農奴>をめぐる詐欺師チチコフの遍歴。

読書

この記事は2023年10月にサービスが終了した読書サイト『シミルボン』に投稿していた記事である。ボクの日記から推定すると、記事の公開は2021年2月頃。

N.ゴーゴリ、平井 肇, 横田 瑞穂 (訳)『死せる魂』岩波文庫(全三冊)

19世紀ロシアの作家ニコライ・ゴーゴリの代表作。物々しいタイトルと全三巻の分厚さに怖気づいて積ん読状態だったが、読み始めると想像以上の面白さで一気に読んでしまった。

主人公のチチコフは、戸籍上は生きているが実際には亡くなった農奴を買い取り、それを担保に銀行から金を借りてずらかることを画策する。言わば詐欺師なのだが、持ち前の洗練された物腰で人々に巧みに取り入る。死んだ農奴を買うという非常識な行為に対して地主たちが示す困惑・抵抗と、それを説得したりやり込めたりするチチコフの弁舌が見どころ。読んでいるとつい、チチコフの企てがうまくいくように応援してしまう。

登場する地主たちは揃いも揃って曲者ばかりで、人間的な精神を失った<死せる魂>の持ち主なのだが、ここにゴーゴリの人間観察の成果がてんこ盛りに詰め込まれている。まるで読書によって人生経験を積んだかのように錯覚するほど、アクの強い人間が多くでてきて、かなり刺激的。詐欺師チチコフの遍歴は、予定調和的・スタッティクな美しさのあるゲーテのヴィルヘルム・マイスターの遍歴とは対極にあって、ゲーテには悪いがこっちの方が断然面白い。

なおかつ、作中で著者が読者に対してなぜ主人公を「詐欺師」にしたのか弁明したり、ロシアの醜悪さをさらけ出すことで「愛国者」から非難を受けることを予想してあらかじめ反論してみたり、ロシア人の性質について自説を展開するなどの<脱線>も本書に独特の魅力を与えている。むしろこの<脱線>の方が、ゴーゴリの純粋さが垣間見える叙情的な描写が豊富で印象に残っている。ゴーゴリはロシアを心底愛すると同時に、ロシアの醜さを嘆じていた。人間の皮相さを難じて深奥に迫らんとする苦悩があった。

諸君は物事を深く洞察する眼を怖れ、自分でも深刻にものを観察することを躊躇して、何事も漫然と表面だけを眺めて喜んでおられる。諸君は肚の底からチチコフを笑われさえするだろう。[中略]だが、諸君のうち誰か、キリスト教徒らしい謙遜の念にみたされて、人前ではなく、一人しずかに胸に手をあてて自問自答するような時、『だが、おれの中にも、どこかにチチコフの片鱗はありはしないだろうか?』という、苦い疑問を起こして、それを心に深く刻みつけるような人はないだろうか?ところが、そんな人はありっこないのだ!

この作品はもともとダンテの神曲に対応するような三部構成の作品として構想されていたが、第一部の完成後、ゴーゴリの筆は遅々として進まなかったらしい。晩年には第二部がほぼ完成されたそうだが、宗教的傾向を深めたゴーゴリは自らの作品が神に背き、世に有害なものと考えて一部を焼却したため、第二部は断片的にしか残っていない。

このような事情から本作は「未完」とされるが、未完になるべくして未完となった、という異様な説得力がこの作品にはある。とすれば、形式上未完であっても、本質的には完結していると言って差し支えないだろう。断片的であれ、ゴーゴリが第二部を遺してくれたことに感謝したい。

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