汗牛足vol.14 専門用語まみれのナンセンスを告発する本

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.14 (2017.4.15発行)


◆1996年4月、アメリカのポストモダニズム系の雑誌の特集号に、アラン・ソーカルという物理学者の「境界を侵犯する――量子重力の変形解釈学に向けて」という論文が掲載されました。しかしこの雑誌が出てからわずか3週間後、ソーカルは別の雑誌でこの論文がポストモダニズムのパロディ論文(編集者の好みには沿っているが、科学的概念の濫用をした、でたらめな内容のインチキ論文)であると暴露しました。しかも論文で引用された文献の多くが、(かつて一世を風靡したらしい)フランス現代思想のものであったために、その思想の影響を受けた人々にとっても打撃が大きく、賛否両論の嵐を巻き起こしました(ソーカル事件)。そして翌年、物理学者ブリクモンとともに、ポストモダニズムの一側面ないしフランス現代思想の一部の論者の、学問への不誠実をいっそう明らかにしたのが本書です。(なお、インチキ論文を載せた雑誌の編集者は、「著者でさえ意味が分からず、しかも無意味と認める「論文」を掲載した」との理由でイグノーベル賞(文学賞)を受賞してしまったとか……)

■アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン、田崎晴明他訳(1998/2000,2012)『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』岩波現代文庫

春休みにとても面白く読了しました。本書で特に批判対象になっているラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ、ヴィリリオといった思想家たちは、フランス現代思想を代表する思想家たちとして高名を博しているそうなのですが、彼らが数学や物理学の概念や用語の濫用をしているさまを、実例を挙げて批判していくというのが内容の大半です。

濫用の実例を見ていると、これらがかつて真面目に引用されたり議論されたりしていたという事実は笑えませんが、言われてあまりにハチャメチャで、もはや滑稽にも思えてきます。ひどい例では虚数と無理数を混同していますし、選択公理、流体力学、トポロジー、カオス、不完全性定理、相対性理論、非ユークリッド空間といった用語を生半可な理解で、しかも扱っているテーマと無関係に(あるいは論理的関連性を検討することなく)詰め込んでいるのです!そのうえ内容が曖昧であることがしばしばで、「読み方に応じて、正しいがかなり当たり前の主張か、過激だが明らかに間違った主張かのいずれか」になることもあります。こんなことで思想家として百科事典にまで載っているというのはショッキングでした。「科学を知らない読者を感服させ、さらには威圧しようとしているとしか考えられない」という著者の言葉も、まんざら誇張ではないと思います。

もし「凡庸な意見を見栄えのいい専門用語で包装する」のではなく、またメタファーやアナロジーと称して他の人文系の学者がわからない科学用語を用いるのでもなく、本当に数学や物理学の概念を他分野に応用したいなら、「使おうとしている数学をきちんと理解していなくてはならない」し、「それらの概念がその分野でもなぜ有効なのか議論があるべき」で、それは可能であるという著者らの主張は、まったくもってその通りであると思いました。

なお、科学の概念を使ったずさんなところは彼らの思想の枝葉末節であって、それぞれの分野でちゃんと実績があるのではないか、といった疑問が浮かんでくる人もいるはずです。しかし著者らは、引用したテキストには「事実や論理に対する、軽蔑とまではいかないにしても、ひどい無関心がはっきりと現れている」とし、「学術的な分野たるものが共通に持つ(あるいは、持つべき)合理性と知的誠実さの規範」をないがしろにするその態度を問題視しています。

つまり、彼らの主張は「科学の濫用」に対する批判にとどまるものではなく、科学的実在論(人間の認識活動とは別に世界の存在と秩序を認め、それは科学によって知りうるとする考え方)を擁護するという側面があるようです。そして、彼らが批判するのは、相対主義(ある命題が真であるか偽であるかは、個人や社会集団に依存して決まるとする立場)や、極端な懐疑主義(外界の存在は認めるが、その世界についての信頼できる知識は獲得できないとする立場)、「正しいか誤っているかを問わない主観的な信念への過剰な関心」などです。(※参考文献:戸田山和久『科学哲学の冒険』;ぼくが「ソーカル事件」を知ったのはこの本がきっかけでした。)

ソーカル事件はあまりに多くの問題提起をしており、あまり整理されたとはいえないのが現状のようです。詳しい経緯については金森修『サイエンス・ウォーズ』が参考になります。

さて、ぼくはこの本から主に二つのことを学んだように思います。一つはある文章や著作が難しいというとき、それは必ずしも自分の能力不足を意味しないこと。「扱っている内容自体の性質のために難しくなった言説と、わざとわかりにくい書き方をして、中身がないことや凡庸なことを用心深く隠そうとしている言説とには、雲泥の差がある」ことを示すのが、著者らの一つの目的でもあったようです。

もう一つはある分野の権威とされている人の言説や一般の評価に惑わされないこと。著者らはある学生――物理学科を優秀な成績で卒業したあと、哲学、とりわけドゥルーズを専攻した学生――の例を挙げています:彼は解析学を何年も勉強したがドゥルーズの解析学に関するテキストを読んでもさっぱりわからなかった。しかし「ドゥルーズの思想が高遠だという評判を聞くあまり、彼には[そのテキストにたいした意味はないという]当然の結論を下すのがためらわれた。」その人がどのような地位にいるかとか、どのような経歴をもっているとか、どのような評価をされているかといったことは脇において、曇りのない目でその人の言説そのものを検討すること、容易ではないでしょうがそうした態度を忘れないようにしたいものです。

◆あとがき

「平等の道徳性」なるものについての会議に参加した物理学者のファインマン、そのバカバカしさに怒り心頭、のちにこのように語っています:「自分の馬鹿さかげんを隠すため、えらそうなでたらめを並べたてて人を恐れいらせようとするようなもったいぶった馬鹿だけは、僕は絶対にがまんできない!」(『ご冗談でしょう、ファインマンさん』)。「科学の濫用」をした思想家たちには、わからないことをわからないと自覚して自分や他人を騙さないというモラルがどうも欠けているのではないか、そしてその根底には、学術的な対話を破綻させてしまう態度が潜んでいるのではないか……。

以前『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を紹介したことがあるのですが、これは「分かっていないことについて堂々と語る方法」でもありました。最近になって、どうやらこの本はフランス現代思想家ジャック・デリダの思想と精神分析をミックスしたような本ではないかと思うようになりました。「正しいか誤っているかを問わない主観的な信念への過剰な関心」に与する本として、間違いなくソーカルらの立場からすると批判対象になると思います。ソーカルの本を先に読んでいたらまた違ったようにも読めたのかな、と反省。

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