汗牛足vol.17 おバカの女神さま、バンザイ!

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.17 (2017.7.15発行)


◆最近は学期末でレポートやテスト勉強で忙しくなりますが、そんな時に限って無性に古典を読みたくなります。

■エラスムス,沓掛良彦訳(2014)『痴愚神礼賛』中公文庫

「痴愚神礼賛」とは、いかめしい感じのタイトルですが、「おバカの女神さま、ばんざい!」という程度の意味です。話の筋は、悪しきざまに思われている「痴愚女神」が、「みなさま」を前に自分で自分を褒めたたえる、というシンプルなもの。痴愚女神いわく、「私は人間どもの恩知らず、というか無関心にはただただ呆れ果てています。万人こぞって私を崇め、私の恩恵を受けていると感じながら、かくも何世紀にもわたって、感謝の弁舌をふるって、痴愚女神を礼賛称揚する人物が一人としていなかったのですから。」

痴愚の反対は知恵とか、知性、理性といったところでしょう。普通の人なら痴愚よりも知恵とともにありたいと願いますよね。しかし聖書の有名な話――「知恵の実」を食べてしまったばかりに、人類は楽園を追放されたこと――に象徴されるように、知恵がそのまま人間の幸福に直結するとは限らず、ときには人間を不幸にもすることもまた、誰もがうすうすは感じているのではないでしょうか。無知蒙昧なまま、自然に従って生きた方が、幸せの内に生涯を送ることができる、という考えには、容易に捨てられない魅力があります。痴愚女神もこう力説していますね。「人間たちがあらゆる知恵とのかかわりをすっぱりと断ち切って、生涯にわたってずっと私と暮らしていたなら、老衰というものも知らず、永遠に続く青春の幸せを楽しむことができるでしょうに。」

では痴愚女神が語るように、著者エラスムス(1466-1536)は実際に知恵を敵視し、痴愚を讃えていたのでしょうか?――とんでもない、その真逆です。エラスムスはあえて真意を裏返したことを書いて、人々の愚を風刺したのでした。彼は痴愚女神に自画自賛させ、人々がどれだけその恩恵を受けているか、またあるいは「痴愚」の仲間、「ウヌボレ」や「追従」、「忘却」、「怠惰」、「快楽」、「無思慮」等々のおかげを被っているか語らせていますが、それは強烈な風刺であるとともに、どこか諦念に満ちたものに感じられます。ともかく、本人はほんのたわむれのつもりで書いたようですが、当時からバカ売れしたらしく、風刺文学の傑作として現代でも読まれているのはすごいですね。

しかしこの本の真骨頂は、痴愚の極みとして教皇を頂点とする当時の腐敗堕落したカトリック体制を批判するところです!これこそエラスムスが書きたかったことなんですね。それは、痴愚女神の語りによって風刺することを忘れて、「キリスト教は、全体として、痴愚となにほどか血脈を通じているところがあり、知恵とは相通じるところが極めて乏しいように思われます」などとついつい真面目なホンネを書いてしまっているところからして明らかです。

たとえば教皇の堕落を描いたこの個所はどうでしょうか:「[教皇様は、]なんであれ骨の折れる務めは、たっぷりと暇がおありのペトロやパウロにほとんどおまかせしておき、豪勢なことや楽しいことがあると、それは御自分の取り分となさっておられます。まあそんな具合で、この私[痴愚女神]のおかげで、人間たちの中でこれほど遊惰な、わずらいのない生活を送っている方はおりません。神秘めかした、芝居がかった衣装に身を包み、儀式をとりおこない、「至福たる」だの、「尊師」だの、「聖下」だのといった称号を帯びて、祝福を与えたり、呪詛したりして監督役を演じていれば、それでもう十分にキリストを満足させているものと思っていますからね。」

宗教改革と言えば、誰しもマルティン・ルター(1483-1546)を思い浮かべるかもしれませんが、世界史に興味がある人なら、「エラスムスが卵を産み、ルターがこれを孵した」なんて言葉を知っているかもしれません。この『痴愚神礼賛』で繰り広げた教皇・カトリック批判が、宗教改革のひとつの起爆剤となったそうですが、これは本人も想定外だったようですね。ただし、彼はルター派からも距離をおきながら、カトリックも批判していたので、両宗派から挟撃され、次第に孤立していき、晩年には親友のトマス・モア(『ユートピア』の作者)が処刑されるなど、不幸だったようで残念ですね。不寛容の時代の悲劇とでも言うべきでしょうか。

エラスムス(ちなみにオランダの人)といえばルネサンスの文脈でも著名な人物として登場します。ルネサンスとは、もちろん教科書的には、「ギリシャ・ローマの古典文化を重んじ、中世の教会の権威や神学から人間性を解放して、個人や個性の価値を主張する芸術上・学問上の革新運動」くらいになるのでしょう。でも正直そういわれてもぼくはピンときませんでした。しかしこの『痴愚神礼賛』を読んでいると、その雰囲気が生き生きと伝わってきて、ああルネサンスってこんな感じなのか!と妙に納得した気分になりました。それにしてもエラスムスは随所にギリシャ・ローマ古典を引用してきて、その博学ぶりには脱帽です。

◆あとがき

ある日、『シェイクスピア』(河合祥一郎、中公新書)という本を立ち読みしていると、見覚えのある絵が目に飛び込んできました。それは数年前話題になった(?)東大英語入試の英作文問題のイラストで、手鏡に映った自分がアッカンベーをしていて驚いている人を描いたものでした。※参考までに→

https://toudainyuushi.com/core_sys/images/contents/00000591/base/003-1428997346.jpg

これはシェイクスピアの劇中の道化の役割について論じた文脈で紹介されていたのですが、そこでこのイラストがエラスムス『痴愚神礼賛』の挿絵「鏡に見入る愚者」に似ていることが指摘されていて、もしやこれが入試問題の元ネタなのか!?と驚きました。(結局その本は買わずに『痴愚神礼賛』を購入。)その挿絵はドイツの画家ホルバインによるものらしく、確かに鏡に映った人間は舌を出していますが、それを見ている人は真顔で、少なくとも驚いてはいません。それにしても、果たして当時の東大受験者の中にこのイラストが『痴愚神礼賛』の挿絵のパロディーではないかと思った人はいたのでしょうか……。

コメント