「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。
汗牛足(かんぎゅうそく)vol.20 (2017.9.9発行)
◆16世紀の古典、その4
前回のラブレーからは少しだけ時代をさかのぼって、マキャヴェッリの『君主論』を紹介します。
■マキャヴェッリ(1532年没後出版)『君主論』[池田廉(1995/2002改版)中公文庫]
存外に読みやすい、そして引き込まれた本です。とくに、あるテーマについて述べようとするとき、まず対象を分類することから始めて、それからそれらを一つずつ、実例を挙げながら検証するという論の進め方には彼の知性を感じずにはいられませんでした。
〇概略
本書は献辞と全26章の本文からなるのですが、この本文はおおよそ4つの部分に分けられるので、便宜上第〇部と呼んでおきます。それぞれの内容はおおよそ次のようになるかと。
第1部[1~11章]では、君主国の分類――例えば世襲君主国、君主も領土も新しい君主国、世襲君主国に併合された国、などなど――がなされ、それぞれの場合についてその君主国をどのように統治し、維持すべきかが述べられる。
第2部[12~14章]では、君主国の分類によらず、攻撃と防衛に関して一般的に論じられる。戦力を自国軍、傭兵軍、外国支援軍、混成軍(自国軍+傭兵軍)の4つの場合に分けて検討し、自国の軍隊に基礎を置くべきだとしている。
第3部[15~23章]では、君主は臣下や盟友に対してどのような態度を取り、どのように治めるべきか、その心構えが説かれる。マキャヴェッリの人間観察がもっともよくうかがわれる箇所。
第4部[24~26章]では、ここまでの論をふまえて、「イタリアの君主たちが、領土を失ったのはなぜか」と問い、その責任を運命に負わせる論を反駁し、イタリアを外敵から解放する新君主への期待が述べられる。
なお、「君主国」という言葉はなじみがないかもしれませんが、君主、すなわち王様がいて、彼がその国の最高権力者であるような国だと考えたらいいと思います。君主国の対義語は共和国で、主権は国民にある、というものでした。
また、当時のヨーロッパ諸国では、一つの国内に複数の異なる文化や言語を持つ民族がいることはわりに普通であることも頭に入れて読んだ方がいいです。一国に一民族という国民国家の概念が誕生し、唱導されるようになるのはもっと後の時代のことですが、一般に「日本人」はなんとなくそれが当然だと思っているようなので。
〇読みどころ
以下、読みどころ紹介に移りますが、あくまでぼく個人の読みどころです。各部ごとに一つずつ取り上げることにします。
・第1部から第6章〈自分の実力で君主の座に就く場合〉
マキャヴェッリは君主も領土も新しい君主国を論じるために、「並外れて偉大な人物の事例を引きあいに」だすのですが、そのようにする理由に感服しました:「賢い人間であれば、先賢の踏んだ足跡をたずね、並はずれた偉人をこそ、つねに範とすべきであろう。それは、たとえ自分の力量がその域には達しないとしても、せめてその人物の残香にあずかりたいと思ってである。」彼は続けて絶妙な例を挙げます:「もし射手の標的があまりにも遠距離で、しかも弓の強さの限界を自覚しているばあい、彼は狙いをはるか高いところにおいてみる。」この例がとても気に入りました。
・第2部から第13章〈外国支援軍について〉
「役に立たない戦力として、外国からの支援軍がある。これは、あなたが他の有力君主に、軍隊の支援や防衛を求めるときのことである。(略)この種の軍隊はそれ自体は役に立ち、悪くはないのだが、おおかた招いた側に禍を与える。なぜなら、支援軍が負けると、あなたは滅びるわけで、勝てば勝ったで、あなたは彼らの虜になってしまうからだ。」すごい、マキャヴェッリが現代によみがえったらきっと日本を「虜になった国」の好例として挙げてくれるのではないかと期待。マキャヴェッリは「勝ちたくないと思う人は、せいぜい外国の支援軍を利用するといい」とまで皮肉っています。
余談ながら、日米関係に関していかにも議論の種になりそうな本、『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(矢部宏治、講談社現代新書)が最近出版されました。この新書の各章の要約マンガが公開されているので一度見てみては?:
・第3部から第17章〈恐れられる君主か、愛される君主か〉
恐れられるよりも愛される君主がいいと9割方の人は考えるかもしれませんが、マキャヴェッリの答えは違います:「愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である」。この「安全」という語句からしてすでに現実主義的回答ですが、その主張は彼の冷徹な人間観察に基づいているのです:「そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだ」、加えて、「人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである」。ここでマキャヴェッリは皮肉でも風刺でもなく、ストレートに人間の性を抉り出してきました!エラスムスの『痴愚神礼賛』で見た(汗牛足vol.17)、ユーモアと機知に富んだ大衆の風刺とは比べるべくもありませんが、両者のまなざしの鋭さは共通している気もします。
・第4部から第25章〈運命論と自由意志のはざま〉
運命論とは、マキャヴェッリの言うように、「もともとこの世のことは、運命と神の支配にまかされているのであって、たとえ人間がどんなに思慮を働かせても、この世の進路をなおすことはできない」という考え。しかしマキャヴェッリはこれを斥けて、「われわれ人間の自由意志は奪われてはならない」といい、「かりに運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配にまかせてくれているとみるのが本当だ」という見方を提示します。ぼくも今のところこの見方に同感ですね。それにしても、こうした考えに裏打ちされた次の一文は力強い:「人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。」
・読んでいて名言が多かったです。マキャヴェッリは名言を吐きまくる人です。本書にとどまらず、マキャヴェッリの著作から名言を集めた手軽な本に、塩野七生『マキアヴェッリ語録』(新潮文庫)があるので、こちらから手にとっても面白いかもしれません。
〇マキャヴェッリの簡単な紹介
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469~1527)はイタリア、フィレンツェの人。町の名家に生まれ、法律家の父の蔵書を利用しながら、ほぼ独学で古典古代の書物を学びました。1498年、29歳でフィレンツェ共和国の書記官に任命されます。公文書や報告書の作成にとどまらず、他国との軍事・外交上の交渉に当たったり、立法にも関わって持論の国民軍を創設したりするなど有能な官僚だったみたいですね。ところが、当時のイタリア情勢は不安定でフィレンツェ共和国で内乱が発生し、フィレンツェの名家メディチ家が政権を握るに至って、彼は1512年に解任され、拘束処分を受けました。その上、1513年には反メディチ派の陰謀の巻き添えを食らい、2週間牢獄に入れられたうえ、拷問も受けたそうです。出獄後、山荘に移って『君主論』(タイトルは後につけられたもの)を書き上げます。この書物はロレンツォ・デ・メディチに献呈されましたが、相手はすぐに死没したため読んでもらえず、出版は死後のことでした。後にマキャヴェッリはメディチ家との関係を回復してフィレンツェの防衛任務に当たりますが、情勢が悪化しメディチ家が追放されると今度はメディチ派として新生共和国から敵視され、失意のうちに没したとのことです。彼の生きた時代はイタリア戦争期(1494~1559)と重なっており、時代の波にもまれた生涯だったようですね。
〇マキャベリズム?
マキャベリズムとは、(政治において)目的を達するには手段を選ばない権謀術数、といった意味。マキャヴェッリが『君主論』で述べた、とされていますが果たしてどうか。マキャヴェッリは第15章でこう述べています:「なにごとにつけても、善い行いをすると公言する人間は、よからぬ多数の人々のなかにあって、破滅せざるをえない。したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを、習い覚える必要がある」、あるいは、「一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい。」
うーん、確かにマキャベリズムと言いたくなるのも分かりますが、残念ながらマキャベリズムという語が独り歩きして、マキャヴェッリの言っていたことから乖離している節があると思います。「目的のためには手段を選ばない」となると、自分の欲求を達成するためにはなんでもしていいのか、という話になりますが、それはマキャヴェッリの言っていることと明らかに違うからです。マキャヴェッリの主張はあくまで君主がその座を維持するためには多少の悪徳は避けられない、それも戦略の一つとして考慮すべきだ、といったものです。この主張はけっして不道徳の産物ではなく、むしろ激動の時代で生き残りをかけた闘いに身を粉にし、冷徹に現実を直視してきた人物だからこそ言えることだとぼくは思います。
ところが、本が出版されるやいなやカトリック聖職者はこの「悪徳の書」を非難し始めます。こうなるとお決まりのパターンですが、本書は1559年にローマ教皇庁により禁書の指定を受けてしまいました。道徳的にいかがわしい本だというバイアスの下で読むと、確かにそうとも読めてしまうから恐ろしいですね。古典と言われる書物は概してどう読まれてきたか、という歴史も背負っているものです。
・マキャヴェッリの著述スタイル
「わたしのねらいは、読む人が役に立つものを書くことであって、物事についての想像の世界のことより、生々しい真実を追うほうがふさわしいと、わたしは思う」(第15章)。いかにもリアリストたる彼らしい言葉ですね。彼はフィクションを書かない。現実に即した記述をする。そこから最善の戦略を導く。主張はストレート、ときに皮肉。それで何より内容は非凡。彼自身、献辞でこう述べています:「作品の文彩のできではなく、もっぱら内容の特異性、主題のもつ意義を喜んでいただければと思う」。彼の場合、「悪書」の称号は優れた書物であることの裏返しであるようにも思われますね。
■あとがき
『君主論』が現実主義の書だとすると、対照的な書物として思い出してしまうのが、前々回に紹介したトマス・モアの『ユートピア』です。モアのユートピアは必ずしも理想郷を意味していませんでしたが、最善の社会政体は何であるか、という問いが根底にあって、現実にはない美点をもつ国家としてユートピアを描いたのですから、ここにモアの理想が込められているとしてもあながち間違いではないでしょう。モアはマキャヴェッリの言う「想像の世界」を描き、読み手にとって役に立つことは目指していなかった。でもだからといってモアの書物はデタラメで役に立たないかというとそんなことはないですよね。「並はずれた偉人をこそ、つねに範とすべき」というマキャヴェッリの言葉はすでに引用しましたが、モアの場合は、自らが「模範」を創り出そうとし、そうすることで現実を捉え直した、と言えるのではないでしょうか。たとえ拙くても自分なりに理想を構想して、それを掲げることは決して無意味ではないとぼくは思うのですが、一方でマキャヴェッリのようなリアリズムにも、当然のことながら魅力を感じました。
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