汗牛足vol.24 ガリヴァーは人間嫌いだった!?

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.24 (2017.12.16発行)


前回は『ロビンソン・クルーソー』(1719)を紹介しましたが、今回はそのわずか7年後に出版された超有名作を取り上げます。

■ジョナサン・スウィフト(1726)『ガリヴァー旅行記』[平井正穂訳(1980)岩波文庫]

(ちなみに原題は “Gulliver’s Travels” ではなく “Travels into Several Remote Nations of the World” )

〇はじめに

ガリヴァーさんは難破して小人の島に流れ着き、目覚めたら糸で体を縛られていた、それくらいは知っているけどそれ以上はハテナでした。ところがエラスムスの『痴愚神礼賛』を読んで諷刺の面白さに目覚め、この作品も諷刺文学の傑作と聞いてどんなものかと読んでみることに。諷刺そのものはイギリス史に明るくないのでよくわからないことがほとんどでしたが、個人的には『ロビンソン・クルーソー』より面白かったです。

前回、『ロビンソン・クルーソー』はクルーソー本人が記したものとして出版されたことを紹介しましたが、実はこの『ガリヴァー旅行記』も、レミュエル・ガリヴァー本人が書いた本として出版され、作者スウィフトの名は伏せられていたそうです!でもガリヴァーさんが小人の島とか巨人の島といった島々に一人漂流した、なんていかにも作り話ですよね。ロビンソン・クルーソーとガリヴァー旅行記は同時代の有名作ながら、そもそも前者がノンフィクションに似せたフィクションだったのに対し、後者があからさまなフィクションだったという点で鮮やかな対照をなしています。とはいえ、両者ともただ一人いまだ知られざる島に流れ着く、という点では一致していますし、実はそれぞれの島のおよその位置が述べられているのも同じです。時代背景としても当時旅行記がブームになっていたことや、イギリスの対外膨張があったことは両作品の成立に欠かせない条件だったと思います。また、デフォーもスウィフトも子供に人気かつ実は奥が深い傑作を50~60歳で書いたらしいのも興味深いですね。

〇簡単な内容紹介

ガリヴァー旅行記は全4篇から成ります。これら4篇の互いの関係はどちらかというと並列的で、いずれの篇でもガリヴァーが不本意に一人だけ島に着き、持ち前の語学力で住民ないし統治者と会話し、数年の後イギリスに帰るというパターンになっています。有名なのはやはり小人の島の第1篇と巨人の島の第2篇です。宮崎駿の『天空の城ラピュタ』の名前のもとになった空飛ぶ島ラピュータは第3篇で登場しますが、この第3篇は他の篇とは違って統一感に欠け、スウィフトの生前から評判が悪かったそうです。でも日本に立ち寄る場面があるのもこの篇で、なぜ作者は主人公に作品中唯一の実在の島・日本に立ち寄らせたのか、ということも含め、日本人としては気になるところですね。そして次の第4篇は個人的に最も読みごたえがあったところで、今回はここに重点を置いて紹介します。

〇フウイヌム国

第4篇の内容に触れておきましょう。ガリヴァーはアドヴェンチャ号の船長としてイギリスを出ますが、部下の叛乱が起きてテキトーな島に一人置いていかれました。今度の島ではガリヴァーはむかむかする嫌悪感を覚える醜悪な野獣ヤフー(Yahoo(!))と、理性ある馬フウイヌムたちに出会います。ガリヴァーは毛の濃さと皮膚の色、衣服の有無を除いてヤフーと同じ形態をしていたので、フウイヌムにはあくまでヤフーとして認知されてしまいます。それでも他のヤフーとは違って理性を有していることは認められ、フウイヌムの「主人」の世話になり、フウイヌムの言葉を覚えて彼らと会話ができるようになります。ところが、徹底して理性にもとづいて行動し、友愛や博愛を美徳とするフウイヌムにとって、ガリヴァーの話すイギリスの状況や、国家間の戦争は想像すらできない醜態として映りました。フウイヌムに感化されたガリヴァーはフウイヌムのようになることを願い、この国で彼らと共に余生を送りたいと思う一方、故国の人間を含めたヤフーに対する嫌悪感を強め、それは人類に対する絶望ないし呪詛と呼べるものになります。ところが、ガリヴァーは所詮ヤフーであり、ガリヴァーをかばう「主人」は他のフウイヌムの理解が得られません。最終的にガリヴァーはフウイヌムの国を立ち去ることになりました。なお、イギリスに帰ったガリヴァーは自分の家族ですらヤフーとして嫌悪し、二頭の雄馬と毎日最低4時間は話し合っているんだとか……。

うーん、第4篇はとりわけいろいろと問題がありすぎると思うのですが、個人的に強く印象に残っているのがフウイヌムによる徹底した人間批判です。例えば、「どうやらお前たち[人間]は、もののはずみでとしかわたしには思えないが、まがりなりにも、ひとかけらほどの「理性」を与えられている動物の一種らしい。そのくせ、それをどんな風に用いているかというと、その力をかりて、自分たちが「自然に」もって生まれた悪徳を増大させたり、自然が元来与えもしなかった新しい悪徳の獲得に狂奔したりしているにすぎない」とか、「もし理性の所有者だと称している者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全に腐敗堕落しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっているのではないか、と疑わざるをえない」等々。

ワル賢いくらいなら理性に欠ける方がまだましだと言い切ったフウイヌムですが、問題はこれで終わりません。というのは、まず一つに、果たして人間批判を繰り広げたフウイヌムは、それに見合うほど理性的な存在であるか、という点で疑問が残ること。もう一つはフウイヌムたらんと欲して人間=ヤフーを嫌悪するガリヴァーは、結局フウイヌムになれなかったということ、そしてイギリスに帰ってフウイヌムを礼賛し、馬と過ごす彼自身、あまり理性的でないという矛盾があることです。

中でも、ガリヴァー自身の矛盾は最も深刻なものでしょう。彼がフウイヌムから学び取ったことは、結局のところ、彼の理性の運用法の改善というよりも、フウイヌムを尊敬してヤフーを軽蔑するという凝り固まった思考形式に過ぎないように思われます。イギリスに戻って、「家の者を見た時、私の心中に忽ち憎悪と嫌悪と軽侮の念だけがこみ上げてきた」というのもその一例、「わが国のフウイヌム諸氏は、知的な面では退化しているかもしれない。しかし、その容姿の面では尽くあの高潔なフウイヌム族そっくりであることは有難い」などと言うのもまたしかり。そして何より彼自身が人間=ヤフーを憎悪し、嫌悪し、軽侮するとき、結局自分も人間=ヤフーに過ぎないことを忘れてしまっています。たとえば彼が「ヤフーという種類の動物は、どんなに教えられどんな手本を示されても自らを良くする能力を全然もっていない」というとき、その一文は自分が「フウイヌムの薫陶」を受けたところでさして自分が向上しなかったことをも意味することに全く気付いていないでしょう。

こうなってくると、これを書いた作者スウィフトの意図も気になります。この本を書いたためにスウィフトは厭世家とみなされることもあるようですが、これは的外れなように思いますね。もしそうだとするなら、スウィフトはガリヴァーに自己を託したことになりますが、とてもそのようには思えないからです。ぼくは、スウィフトはあえてガリヴァーに自分の矛盾に気づかずにヤフーを軽蔑させることで、自分の非には鈍感で他人の非には鋭敏な人間一般の性をガリヴァーに表象させたように思うのですがどうでしょう。ガリヴァーに対してお前も人間じゃないか、と非難する人には、お前もガリヴァーではないか、という非難がおのずと返ってくる、そんな仕掛けになっているような気がするのです。

〇文献紹介

この汗牛足で取り上げようとガリヴァー旅行記関連の(日本語の)本を探すと意外にたくさん出てきて驚いた次第です。まずかなり本格的な訳本として、『『ガリヴァー旅行記』徹底注釈』(富山太佳夫ほか、岩波書店、2013)があります。これは[本文篇]と[注釈篇]の二分冊になっていて、注釈は本文の倍ほどの分量があります!読んでいてとくに気になる箇所はこの注釈篇を参照しました。他、読みやすい解説本にNHKラジオのテキスト『風刺文学の白眉『ガリバー旅行記』とその時代』(原田範行、NHK出版、2015)や、それよりもう少し本格的なものに『シリーズ もっと知りたい名作の世界⑤ ガリヴァー旅行記』(木下卓ほか、ミネルヴァ書房、2006)があります。パラパラ読んでいると発見がありました。

それからイギリスの歴史に多少の知識があると作品中の諷刺がより理解できて面白いのですが、その意味でも、また純粋にイギリスの歴史を知る上でも『物語 イギリスの歴史(下)』(君塚直隆、中公新書、2015)は読みやすくていい本だと思います。

◎毎度のことながら長くなってしまいました。しかし残念なことに、ぼくはガリヴァー旅行記についてまだ書き足りていません。(書きたいことがちっともまとまらなくて困りました。)とくに興味があるのは、作品中の植民地批判で、これについては次回取り上げたいと思っています。

◆あとがき

去年のこの時期は阪急河原町駅から京大まで片道40分かけて歩いていたのですが、帰りに夜道を歩くのもうんざりなので、今年は自転車に乗るようになりました。片道20分かからないくらいになって文明の利器の威力を感じましたね。その分時間の余裕があるのでここ数週間は鴨川の野鳥の写真を撮っています。とくにこの季節は冬鳥がやってきてかなりにぎやかです。見ていて大変癒されるので、かえって授業に遅刻することもしばしば。京大に通って得た最高の友は鴨川のカモです、なんて言うと「ガリヴァー」の異名を頂戴するかも。20種を超える鳥の写真が撮れたのでよかったら見てください:

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