汗牛足vol.27 自由意思は存在しない?脳科学で考える。

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.27 (2018.3.18発行)


◆最近読んでおもしろかったノンフィクションを一冊。

■デイヴィッド・イーグルマン、太田直子(訳)(2012/2016文庫化)『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』ハヤカワノンフィクション文庫 [Eagleman, David. (2011), Incognito: The Secret Lives of the Brain]

原著はもう7年も前でしたね、古い本ですみません。神経科学者による脳科学の本ですが、素人の私にはいろいろと発見がありました。一般向けに分かりやすい言葉で書かれていて読みやすい本です。個人的にはもう少し専門性というか、学術性が高くてもいいと思いました。

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例によって安直に私が読んでおもしろかったところをいくつか取り上げてみましょう。

一つは人間の視覚に関する本書の記述ですね。私は自分がいま見たままを写真にできたらカメラなんて持ち歩かなくてもシャッターチャンスを逃さず写真が撮れるのに、と思っていましたが、それはどうも見当違いのようです。筆者によれば周辺知覚の分解能は、浴室のすりガラスのドアを通して見るのと同じぐらいだそうですね。もし見たままを写真にできたら、中央は確かに高画質でも、周辺はボヤボヤな写真ができるということでしょうか。しかし日常的には周辺もちゃんと見えていると思ってしまうのは、関心のあるものに分解能の高い中心視力が向くように脳が視筋を働かせるからだといいます。

さらに興味深いのは、視覚は解釈に過ぎず、あらゆる視覚はある意味で錯覚だという著者の主張です。ここで取り上げられる興味深い例が、3歳で失明してからその43年後に新しい手術法の開発で目が見えるようになった男性のケースです。手術後に、男性が息子の顔をその目で初めて見るという感動のシーンが期待されたわけですが、現実にはそうならなかった。確かに彼の目はちゃんと機能していて、視神経を通して信号が脳に送られたのですが、肝心の脳の方が、その送られた信号をどう処理したらよいのかわからなかったようなのですね。とはいえ、数週間もすると脳がその信号の処理を学んだようで、問題なく見えるようになったようです。ヒトの脳は見たままを見ているのではなくて、目からの信号を脳が解釈しているに過ぎないことがよくわかる事例ですね。こうしてみると、人によって見え方が違っていてもおかしくないし、人の目がしばしば錯覚を起こし、錯覚だと分かっていても直らないのもそんなに不思議ではないように思えます。視神経からの信号の解釈が間違っていると言われても、解釈は一朝一夕に変わるものではないし、この解釈でうまくやってきたからこそ自然淘汰の結果生き残ってきているとも言えるでしょう。

目から送られた信号を解釈しなければ見えない。ならば、目の代わりにカメラで撮った映像を信号に変換して脳に送り、それを脳が解釈できるようになればものを見ることができるのではないか、という疑問が当然わいてきます。どうやらこれはすでに応用されているようで、ブレインポートというものがあるそうですね。格子状にたくさんの電極を並べた装置を使って、カメラの映像を電気信号として舌に送るそうです。味覚が視覚としておきかえられた、とでも言うべきでしょうか。結局のところ、私たちは目でモノを見ているのではなく脳で見ている!筆者は「将来的には、赤外線や紫外線の映像、さらには天候データや株式市場データのような、新しい種類のデータストリームを直接脳に差し込めるかもしれない」と書いているのですが、現在ではいくつか実現したのでしょうか。類似の試みの事例を知っていたらぜひ教えてください。

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著者が「見誤り効果」と呼ぶものもおもしろいですね。被験者に女性と男性の写真を見せてその魅力を評価するのですが、ぱっと見せた場合と時間制限なく好きなだけ見せた場合とでは前者の方が美しいと感じるというもの。つまり、チラッと見かけた人の方がじろじろ見た人よりも魅力的に感じるんですね。なお、その効果は女性よりも男性の被験者に強く現れるらしいです。これは私もしばしば経験することなので自分だけではなかったと安心しました。ちらりと見かけると美人かと思って変に緊張するのです(これは不随意でどうしようもないのです)が、実際によく見るとはそうでもない場合が……(失礼!)。

すでに16世紀にミシェル・ド・モンテーニュは「本当に、その道の大先生方が、(…)恋愛を冷ますには、愛するものをじろじろ見さえすればよいと教えていることも、一考に値する」などと大真面目に書いているのですが、それはこの見誤り効果のことを言っていたのかもしれませんね。ひょっとすると日本古典その他の文学でも見誤り効果による悲喜劇を扱ったものがあるのではないかと思うのですが、何か知っていたらぜひ教えてください。

著者はこの効果が起きる理由として生殖の必要性を挙げています。つまり、魅力的でない人を美しいと感じても、じっくり見れば誤りは正せるのでそのコストは低いが、もし魅力的な相手を魅力的でないと勘違いすると「バラ色かもしれない遺伝子の将来に「さよなら」を言うおそれがある」ので、取り返しがつかないと。そう言われてしまっては身もふたもないのですが、私たちが自然淘汰の結果残ってきた個体であることを考えれば、まあそんなところなのでしょう。

このほかにも、女性は月経周期のうち妊娠能力が最も高いときに最も美しいとみられること、目を見開いた女性の方が魅力的だと感じられること、そして男性は自分がそういった女性の方が美しいとなぜ判断したのか自分で説明できないこと、などが挙げられています。詰まるところ、自分がどんな相手を魅力的と感じるかについては本能的なものによるところが大きいようです。特にこういった場面でわたし=意識の果たす役割は思っているよりも小さいものかもしれません。

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危険な遺伝子セットの話。もしあなたがある特定の遺伝子セットを持っていたら、持っていない人よりも、凶悪犯になる可能性が882%高いです。そう聞かされたら、自分はそんなものは持っていないとか、そんな遺伝子セットは撲滅した方がいいのではないかととっさに思ってしまいませんか。しかし残念ながらその遺伝子セットをもっている人の割合はおよそ半分だと聞かされたら、勘のいい人はその正体に気づくことでしょう。アメリカの囚人の圧倒的多数が持っていて、死刑囚の98.4%が有するという「危険な」遺伝子セット、それはなんのことはない、Y染色体、つまり男性だけが持つ染色体のことでした。やれやれ、この圧倒的な男女の差異にはやはり本能によるところがあるのでしょうか。しかし重要なのは、Y染色体を持っているからといって、すべての男性が罪を犯すわけではない、ということです。

著者は、生まれと育ち――自分のもつ遺伝子と自分が過ごしてきた環境――によって個人の人格、世界観、意思決定能力が決定されていく、と言います。まあこれはまんざら目新しい見方ではないかもしれませんが、なぜ「危険な」遺伝子セットを持っているからといってすべての男性が犯罪者になるわけではないのか、という問いに答えるものです。男性であることは、確かに犯罪者になりやすい一要因ではあるが、それだけで決まるわけではない、その人がその後どう育てられるか、ここにも大きく作用されるということですね。

鬱病に関しても、脳内のセロトニン濃度の調節に関与する遺伝子が関係しているそうです。したがって、鬱病にかかりやすい遺伝子はあるといえばありますが、それがすべてではありません。人生における衝撃的な事件を経験するか否かも、その発症を左右するというのです。

遺伝子と、人生における経験や環境が、その人を決める。(補足しておくなら、その人が摂取したもの(アルコールやタバコ、薬物、化学物質)や、ホルモン・微生物・ウイルス・病気・脳の損傷などによっても脳の働きは変化するそうです。)問題は、これらがどこまで決めてしまうのかということ。自分がやろうとすること、自分の行動、自分の要求、そのすべてが、自分の遺伝子と自分の経験・環境によって規定されてしまっているのか、それともその両者とは無関係に、自主的な、自由な意思が存在するのか? この問いが深刻なのは、もし日常的にはあると思われていたこの自由意思が存在しないなら、責任というものはフィクションではないのか、犯罪者に責任がないとすれば懲罰は不当なものではないか、という問題が起こってくるからです。これがむしろ本書のメインテーマであり、著者が最も問いかけたいことのようです。

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自由意思が存在するか否か、これは極めて興味深いテーマであり未解決の難問ですが、あなたはどう思いますか。どう思いますかってそんなこと聞かれても……。私は原理的には自由意志なんて存在しないが、そのことを分かった上で日常ではあるものとみなしておけばいいんじゃないか、なんて虫のいいことを考えています。筆者はその存在について断定を避け、自由意思の存在を納得のいくように確定する論拠は今のところない、としています。

しかし法制度では自由意思の存在を前提しているようですね。殺人事件でも、自由意思によって行ったなら有罪だが、脳の損傷によるものなら無罪、ということです。しかし、科学技術が進歩すれば実はこれまでなら自由意思によるとされてきたケースでも実は脳に何らかの問題があったことが分かるようになるかもしれない。その境界は常に流動的になってしまう。どこまでが脳のせいにできて、本人自身(=自由意思)の責任ではないといえるのか、その判定は究極的には不可能なのではないか。むしろ、自由意思を存在するともしないとも前提せず、その人に責任があるかないかを問うことをやめて、どうすれば今後の社会のためになるかを考える前向きな法制度に改めるべきだ、というのです。

ここまでは正論だと思いますが、そのあとが問題。著者は犯罪行動そのものが脳の異常性の証拠としてみなされるべきだ、というのです。これは私には自由意思の否定のように読めて先の議論と矛盾しているようにも見えますし、犯罪者に対する差別にならないかという不安もあります。しかし著者によれば、刑務所に収容される犯罪者の大半が持つ顕著な特徴こそは衝動抑制の弱さだそうで、したがってその弱さが克服できるように犯罪者を更生すればよいとのこと。つまり、悪いことをしようと考えること自体は咎められないが、それを実行に移すのを抑制できる能力を持たせればいいと。衝動抑制が弱いのはなぜかというと長期的な配慮に関わる前頭葉が発達不全だからで、これが強化できる余地のある人は強化し、その期間だけ収容する。残念ながらもはや前頭葉を強化できない人、言い換えれば神経の可塑性に乏しい人は、別の施設で国が面倒を見る、ということを提案しています。

衝動による犯罪ではなく、計画的な犯行に対してはどう対処するのか、といった点などで疑問も残りますが、ぼくには非常に魅力的なアイデアに思われます。画期的なのは、犯罪者の責任を問わないということ、そして、犯罪者に対する報復・懲罰の原理に基づく刑罰ではなく、犯罪者の更生を目指すことです。

しかし実際にやろうとするとかなり難しいでしょう。とくに日本の場合、死刑を廃止されないどころか、する気配もない。私が思うに死刑を正当化する論拠は2つしかありません。一つは抑止力としての効果を期待するもの。もう一つは報復感情に基づくもの。とくに後者の報復感情というのは人間に普遍的な感情であなたも私も持っている。おそらく日本で死刑が廃止されないのはこの報復感情を刑罰と切り離せないからだと思います。前向きな法制度構築はなかなか難しそうです。

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ここまで読んでくださった方はよかったら次の点に関して意見を頂けると嬉しいです。

・死刑制度は存続すべきか、廃止すべきかとその理由。

・人間の犯罪行為に対する責任の有無は確かめられない性質のものだとしたら、社会あるいは国家として犯罪者への対処はどうあるべきか。

興味深い意見等々があれば次回紹介するかもしれません。どんな意見でも大歓迎です。一部分だけでもいいので回答してもらえるとありがたいです。

◆あとがき

「財務省が森友学園関係の決裁文書を改ざんしていた。この改ざんという事件そのものに関しては、改ざんの実行犯、改ざんの指示を出した人物、改ざんを黙認した人物、改ざんの事実を隠蔽しようとした人物等々の関係者を明らかにし、彼らの責任ないし罪を問うべきだ。そして、この事態を未然に防ぐべき立場にあった者――行政の長も含めて――は相応の責任をとるべきだろう。1年近くにわたって、この事実が隠蔽され、立法府ならびに国民を欺いてきたという事実の重みを踏まえなければならない。もしこの改ざんの一因が組織の構造的欠陥や運営上の問題、法制度上の不備などにあるのなら――当然あると思うが――そこから改めていかなければならない。そして、以上のことが仮に達成されたとしても、それは決裁文書改ざん事件への処置であって、森友問題そのものが解決したことにならない。新たに、国有地の売却に際して鑑定価格から8億円以上の値引きをする根拠となったごみ積算において、学園や財務省近畿財務局側から促されて写真を用いた虚偽の説明がなされていたという疑惑が浮上している。行政の側から不当な働きかけがあったことが事実であるとすれば、こちらは別個の問題として扱われなければならない。この一連の事件の解決には数年を要するかもしれない。それでも我々国民はこれらの問題の最終的解決と、類似の事件の防止に向けた適切な措置が講じられるまで、国家を監視しなければならない。」(2018.3.18、K氏による。本人の承諾を得て掲載。)

まるで新聞の読者のオピニオン記事みたいですね。素人の学生が書いたことは確かです。

改ざんを指示した人間がもしいるとすれば、その人の脳は前頭葉の働きがいまひとつなのかもしれませんね。前頭葉が成熟していることを試験を受けて証明しなければ、国家公務員や国会議員になれないようにしてはいかがかでしょう。もっとも、試験結果が改ざんされては元も子もありませんが。

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