「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。
汗牛足(かんぎゅうそく)vol.3 (2016.5.15発行)
◆前回までに「読書」をテーマとして計6冊の本を紹介しました。そして、今回は違うテーマでいこう、と思っていたのですが、テーマを決めるのがどうも不自由なので、今回はとくに決めずに3冊紹介します。でもまあ強いて言うなれば、「知的振幅を拡張するためのイントロ」といったところでしょうか。つべこべ言わずに本題に入ります。
■花村太郎『知的トレーニングの技術』ちくま学芸文庫
最初はあまり大した本でもなさそうだと高を括っていたのですが、読んでみるとけっこう内容も充実していて、これを高1ぐらいによんでいたらなあ、と思った本です。「知的生産」といったようなワードにビビッと反応するひとはぜひ。
内容は「世界と時代と自分の人生にたいして、より自覚的に賢くかかわりたい、という知への願望」をもつ人のための「技術」を5つの原則に従って紹介したものです。その原則とは;
1. 知的創造のために「考える」時間を奪われないようにする。
2. 自分の現在の知的関心にふさわしい方法で知性の幅を広げる。
3. 独学・独習の覚悟をもって、有機的に知識を結びつけ、自分なりの知識体系を身につける。
4. 偉大な知・知的巨匠の方法に注目し、自分の知的スタイルをつくるためのヒントとして活用する。
5. 単なる情報処理にとどまらず、思想を理解して自分の思想をもつ。
この本の何よりの特色として挙げられるのは、原則4.に従って、歴史に名をはせた偉人のエピソードや名言に言及していることです。顔写真つきで紹介された人物だけでも、ポール・ヴァレリー、南方熊楠、ニーチェ、フロイト、鴎外、漱石……といったように幅広い。ところで『自助論』という本があるのですが、言ってみれば、この『知的トレーニングの技術』は現代日本版『自助論』だと思いますね。どういうことかというと、『自助論』というのはイギリス人S.スマイルズの、歴史上の人物の成功談を紹介しながら自助独立の精神を説いた本なんですが、それに似たところがあります。『自助論』(『西国立志編』)は明治青年層を大いに鼓舞した本として日本史選択者は習ったのですが、この本にもある種のひとを鼓舞する力があるのではないかと思います。ゲーテの恋愛中途逃亡術や、鴎外の超合理的倹約生活、漱石の超然牛歩作戦、熊楠の半カ月語学習得法、などと聞くと誰しも興味がわくものではないでしょうか。その点、読み物としても楽しめる本です。
あと原則1.があるのはとくに注目すべきではないかと思います。「日本的な社会関係が日本人に、孤独な思考空間をもつことを妨げている」というのは著者の指摘です。社会をろくに知らないぼくは口をつぐむべきかもしれませんが、LINEやTwitterなどのSNSが広く受容されていくにつれてその傾向はますます深まるのではないでしょうか。せっかく一人になってもスマホにまとわりつかれている人が多いですから。そうでなくても、「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失って行く」とショーペンハウアーが言うような場合もあるでしょう。そして、思考を深めるためには、それなりの環境が必要です。「孤独な思考空間が、自立した思考や独創的な思想を可能にする」と著者は強調します。「昔から、新しい諸価値の創案者たちは、市場と名声から離れたところに住んだのだ」とはニーチェの言葉です、「のがれよ、わが友よ、きみの孤独のなかへ!」
最後に、ぼくが個人的にこの本をきっかけにやってみたいと思うことを書いておきます。やりたいことというのは、夏目漱石全集を読むこと、それも(中古で安く手に入る)旧字体のものを端から端まで読むことです。こういうと何か大仰なことのように聞こえますが、著者は「わかってもわからなくても、毎日はじめのページから一枚一枚、全集のページをめくっていくだけだ。それだけでいい。」といいますから気楽なものです。実は前から全集読破はやってみたいと思っていたのですが、これでようやく決心がつきました。
■野家啓一『科学哲学への招待』ちくま学芸文庫
この本はぜひ英訳すべきではないか、と思うほど広く読まれていい本です。「科学とは何か」という問いに対して、歴史学(科学史)、哲学(科学哲学)、社会学(科学社会学)の三つの立場から総合的に考察されているのですが、ぼくにはこのあたりの知識がさしてなかったので勉強になりました。ここでは科学社会学の立場から書かれた「補章 3・11以後の科学技術と人間」を紹介しようと思います。
著者は3.11の福島第一原子力発電所の事故によって「価値中立神話」、「安全神話」、および「信頼神話」が崩壊したと言います。
「価値中立神話」というのは、換言すれば両刃の剣、使用する人間によって善にも悪にもなる、ということです。しかし著者は現代の科学技術を「多くのサブシステムを包括した巨大な社会システムであり、複雑で多様なメカニズムで動いていることから、その影響や帰結を見通すことが著しく困難になっている」ものとして捉え、「楽観的な善悪二分法は成立しない」としています。したがって、「価値中立神話」というのは福島の原発事故を待つまでもなく、否定されるわけです。
つづく「安全神話」は「「安全であるべし」という当為を「安全である」という事実とすり替え、事実判断と価値判断を意図的に混交することによって形作られてきたもの」としたうえで、「その神話に自縄自縛になることによって、電力会社は必要不可欠な安全対策を講じてこなかった」と厳しく非難しています。
以上の二つに関して著者は「崩壊すべくして崩壊した」と述べていますが、最後の「信頼神話」、すなわち「政治と科学に対する二重の不信」は崩壊するに任せておくわけにはいかない、と言います。そこで著者は「トランスサイエンス」、「リスク社会」、「世代間倫理」の三つの点でその克服法に迫っています。ここでは「世代間倫理」について見てみることにします。
ご存知の通り、原発はそこでできる高レベル放射性廃棄物の処理方法さえ完成されていません。つまりは、「原発による発電の恩恵を享受するのは現存世代であるが、その負債ともいうべき放射性廃棄物の処分と安全管理は未来世代へと丸投げされている」ことになります。このように「環境汚染や化石燃料の蕩尽をはじめ、未来世代に負の遺産を押しつけるような問題」(に対する倫理)を「世代間倫理」というそうです。この倫理の難しさは、未来世代がまだ存在していないこと、現存世代による民主主義では未来世代の負担が見過ごされてしまうところにあります。
ここでおもしろいのは著者がアメリカ先住民の考え方を引っ張ってくるところです;「ある決議事項をめぐって自分が投票するなら、その票は自分だけではなく、まだ生まれていない者たちも含めて、以後の七世代のための一票なのだ。」この日本なら七世代と言わずとも、一世代でも立派なものですね。実に立派。あるいはこんな格言もあるそうです;「大地は子孫が貸してくれたもの」。「先進国」日本の現状を頭に浮かべながら、これらがアメリカの先住民の知恵かと思うと皮肉なものです。
ぼくは最近「持続可能な社会」という言葉をよく思い浮かべるのですが、「世代間倫理」はこの意味で重要な考え方だと思います。刹那主義や享楽主義は個人レベルでなら自由かもしれませんが、世代レベルで社会的にやってもらっちゃ困るわけです。「世代間倫理」の実践には巨視的な見方が必要です。自分を今の時代から突き放してみる視点がどうしても要ります。ぼくはこの点で古典の有用性を確認します。古典というのは狭義には現存しない過去の世代の人々によって書かれたものでありながら現在でも(細々と)読まれる書物です。それを考えると、古典は、大げさに言えば、「超時代性」ともいうべきものを宿しているといってもいいのではないでしょうか。現代にあって、現代に書かれたのではない本を読むということは、現代にいながらにして自分を現代から隔離することを可能にするはずです。「世代間倫理」を古典と結びつけて考えるのもおもしろいと思います。
■今井むつみ『学びとは何か――〈探求人〉になるために』
大学に入ると「学問」ができるとボンヤリ期待していたのですが、そんなときに手に取った一冊です。結果的にはちょっと的はずれだったかもしれませんが、興味深いところもあって、これからの自分の学びのあり方を考えさせられた本です。内容は、認知科学の立場から学習過程をたどり、「探求人」となって何らかの物事に秀でるための条件をさぐる、といったものです。(ただ、タイトルと内容の構成があまり練られていないのは残念です。)
ここでは「スキーマ」による学習過程を見てみます。スキーマというのは、「目立つ特徴のみに頼って直感的につくり上げた「思い込み理論」というべきもの」で、正しいとは限らないものです。子どもはこのスキーマを通して現象を眺め、それに合った情報を取り込み、スキーマに合わない情報は無視して学習するそうです。しかしこのスキーマが間違っていたら厄介なことになりそうだということは容易に想像できます。そのおもしろい事例をいくつか挙げると;
「多くの子どもはまた、理科の授業などで地球が太陽の周りをまわっていること、つまり地動説を教えられた後も、天動説を信じている。……地動説を教えられても受け入れることができず、地球は、ほんとうは水に浮かんでいると考えている子どもも多くいる。」
「理科系の大学生の四分の三以上がコイン投げの問題で誤答した。……学生たちは、その後の一学期の間、物理の授業を受け、慣性の法則についてもみっちり勉強した。その上でこの問題を再び解いたところ、[慣性の法則を適用すれば解けるはずなのに]そのときでも正解率は二八%にすぎなかったという」
したがって、「いったん自分でスキーマをもつと、そのスキーマに合わないことは、いくら説明されても無意識に無視するか、スキーマに合わせる形で説明を捻じ曲げてしまうことが多い。」と著者はいいます。こうしてスキーマが学習の妨げとなるのは外国語学習のときも同様で、「母国語と外国語の間にズレがあると母国語についてのスキーマを外国語に適用して学習を妨げてしまう」ということが起きます。したがって「外国語の単語の意味をきちんと理解するためには、母国語とは別に、その外国語でのその概念領域の意味地図をゼロからつくり直さねばならない」そうです。英語アタマをつくれとよく聞きましたが、こういうことなんでしょうね。
ところで「確証バイアス」というのも、この「誤ったスキーマ」とよく似ています。「確証バイアス」というのは「自分の信念と一致する事象に注目し、一致しない現象は無視しがち」というバイアスの一種をいうもので、このあたりに興味のある人は 池内了『疑似科学入門』(岩波新書)を読んでほしいのですが、科学者もこうしたバイアスから逃れることは容易ではないわけです。「自分でつくりあげたスキーマを捨てて「正しい概念」を受け入れることは、科学者が自分の仮説を捨てて新しい理論にたどり着く過程と似ている。」ただ注意しておきたいのは、仮説が科学の進展に大きな役割を果たしたように、スキーマも学習のためになくてはならないものである、ということです。「何かを学習し、習熟していく過程で大事なことは、誤ったスキーマをつくらないことではなく、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正していくことである。」できればここで先ほどの『科学哲学への招待』の科学史や科学哲学の話を引っ張ってくるとおもしろいのですが、長くなりそうですし、今のぼくには分不相応なのでこの辺でやめときます。
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