汗牛足vol.33 「自然淘汰」のメカニズムを知ると世界観が変わった。――利己的な遺伝子、気まぐれなミーム

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.33 (2018.9.19発行)


前回前々回に紹介したD・リーバーマン『人体六〇〇万年史』とは違った角度で、生物学的進化と文化的進化を見てみようというのが今回の趣旨です。

■リチャード・ドーキンス、日高敏隆 他(訳)『利己的な遺伝子 40周年記念版』紀伊国屋書店(2018)[Richard Dawkins. (2016). The Selfish Gene: 40th Anniversary Edition, Oxford University Press.]

 今回取り上げたいのはR・ドーキンスの『利己的な遺伝子』です。初版は1976年の本なのですが、40周年記念版が出版されているというのですから紛れもなくロングセラーですね。間違いなく「古典」の部類に入る、入っていく本だと思います。

 ドーキンスは動物行動学者です。したがって本書の主な関心は必ずしも遺伝子そのものにあるのではなくて、むしろ動物の利己的・利他的な行動をどのようにして説明できるか、というところにあります。そしてその説明のカギになるのが「利己的な遺伝子」、というわけですね。(私はタイトルにつられて遺伝子の話がたくさん載っているのかと思って本書を読み始めたのですが、手に取る本を間違えたようです。)

 たとえば小鳥の群れの中のある一羽が、タカなどの捕食者が飛んでいるのを見て「警戒声」を発し、それによって群れ全体が避難できたとしましょう。ここで警戒声を発することは、捕食者の注意を自分に引き付けてしまい、自分を危険にさらしかねないので「利他的」な行動だと言えます。(人間の場合は、何かの打算があって利他的にふるまうのは本当の意味で利他的とは言えない、などといった話が出てきますが、本書では動物の主観に立ち入らず行動のみに着目して「利他的」・「利己的」と言っています。)このように警戒声によって群れ全体に逃避行動を取らせることは、実際に多くの子鳥で観察されているそうです。では、小鳥たちがこのような利他的な行動をとるのはなぜなのでしょうか。

 一つの考え方は、自分を危険にさらしてでも群れ全体を助けようとする個体から成る群れの方が、群れの利益よりも自分の利益を優先する個体から成る群れよりも生き残りやすいから、というものです。一般化して言えば、利己主義者の集団より利他主義者の集団の方が生存に有利だから、利他的な集団が大方を占めるようになる、という考え方ですね。この考え方を「群淘汰」説と呼んでいます。一見もっともらしい説明なのですが、この説にはどうやら欠点があるらしいのです。

 「群淘汰」説に対して、「個体淘汰」説の支持者は次のように反論します。先ほどの子鳥の例で言えば、タカを見ると警戒声を発する「利他的」な個体たちから成る群れの中に、「利己的」な個体が現れたらどうなるのでしょうか。この利己的な個体は、他の個体が警戒声を発するときには仲間とともに身を守るのですが、自分からは決して警戒声を発しません。したがって利己的な個体は、自分を危険にさらす利他的な個体と比べて生き残りやすいので、より繁殖していく傾向にあるでしょう。そして何代かの自然淘汰を経て、群れには利己的な集団がはびこるようになってしまうのではないでしょうか。仮に利他的な個体だけからなる群れがあったとしても、利己的な個体が移住してきたり、利己的な個体と交配したりすることで、群れの中に利己的な個体が現れて、やはり同じことが起きるのではないでしょうか。一般化して言えば、利他主義者の集団の中に利己主義者が混ざっているという仮定は妥当であるし、そうであれば利己主義者は利他主義者をカモにして繁栄する傾向にあるだろう、というわけです。こう考えると、利他的な集団の方が有利だとする群淘汰説は、たまたま群れの中で利他主義の「純血」が保たれるという現実味の低いケースを想定しており、ちょっとナイーブかもしれませんね。(他にも群淘汰説に対する反駁がありますが割愛。)

 どうやらどのレベルで自然淘汰が働くのか、という点で混乱があるようです。群淘汰説では群れ同士を比べて、より生存に有利な群れが生き残っていくのだ、としています。だから各個体は群れにとっての利益を優先させるように利他的な行動も見せる一方で、各集団はそれぞれ全体として利己的にふるまうというわけですね。一方で個体淘汰説では、個体と個体とを比べて、より生存に有利な個体が生き残るのだ、という見方をしているようです。しかしドーキンスは、淘汰は集団レベルで起きるのではなく、また厳密には個体レベルで起こるのでもなく、遺伝子レベルで起こるものだと言います。

 淘汰が遺伝子という単位で起こっていると説明するのは少々面倒なのですが、個人的にはここが一番へえー、と思った箇所なのでざっくり紹介しましょう。

 話は生命の起源から始まります。生命誕生以前には地球上にある化合物は水、二酸化炭素、メタン、アンモニアなどの単純なものでした。しかしそこに紫外線や稲妻などが加わると、より複雑な分子が誕生するようになります。さらにそこから「自己複製子」という自らの複製を作る分子が偶然誕生しました。複製のための材料は、自己複製子を取り巻く「原始のスープ」に漂っているので、自己複製子が次々に形成されていきます。しかし時には複製の時にエラーが発生することもあったでしょう。そうしてさまざまなタイプの自己複製子が出てくると、個々の分子の安定性(寿命)や複製の速度(多産性)、複製の正確さの違いによって、あるものはその有利さのために他よりも多く存在し、あるものは他に押されて数を減らしたと考えられます。つまり、自己複製子たちの間で自然淘汰が起こり、分子レベルでの進化が始まったわけですね。

 自己複製子どうしの「競争」は、自らの安定性を増大させ、競争相手の安定性を減退させるための巧妙な手口を生みだすことになったのでしょう。あるものはライバルを化学的に破壊し、それを自己の複製のための材料に使い始めたり、またあるものは防御手段を「発明」して、自らを守りそこに住むための「生存機械」を築いたりするようになります。そうすると、今度はそれぞれの自己複製子がどれだけ有能な生存機械をどれだけ効率的に作れるか、という点でも「競争」が起こってきます。つまりこれが生物学的進化の始まり、というわけでしょうね。

 現在ではDNAと呼ばれる分子でできた自己複製子=遺伝子が複数集まって、さまざまなグループを作っています。そしてそれぞれのグループは固有の生存機械を構築してそこに集団で住んでいる、というわけです。人間を含め、あらゆる動植物、バクテリア、ウイルスはこの生存機械であり、それらはすべて遺伝子たちのグループのためにできたものです。(「住んでいる」とか、「~のために」というのは比喩表現なので、文字通りに受け取ってもらっては困ります。)

 ドーキンスは自然淘汰が厳密には遺伝子レベルで起こっていることをボートレースの例えを用いて説明しています。私はよく知りませんがボートには9人が乗り込んで、それぞれが前オールや調整手やコックスといったポジションを担当するそうです。今ここにポジションごとに選手がたくさんいるので、そのなかからランダムに選手を選んできてチームを作り、そうしたチーム同士を競わせたとしましょう。何度も繰り返してやっていると、ある人が乗っているボートは頻繁に勝つが、別のある人が乗るとたいてい負けるということがあります。もうお分かりのように、ここでボートが生存機械に、選手が遺伝子に対応しています。競争に勝つことに貢献する選手ほど優れた選手として選ばれるように、生存に有利な生存機械の構築に貢献する遺伝子は、多くの個体に広まっていくでしょう。逆に、彼が乗ると必ず負けるという選手は、致死遺伝子に相当すると言えます。ボートレースではもちろんボートを単位として競争が進行している(=個体レベルでの自然淘汰が起こる)のですが、実はそれ以前に選手同士の競争がある(=より個体の生存に貢献する遺伝子が残る)んですね。

 したがって自然淘汰は直接的には個体レベルで起こっているのですが、より根本的には遺伝子レベルで起こっている、ということです。遺伝子にとっては、それ自身やそのコピーが乗っている生存機械がより多くの子孫をもうけられた方が、その遺伝子のコピーが広く行き渡ることになります。あえて比喩を用いて言うなら、遺伝子というのは自己ないしそのコピーの生存の機会をできるだけ大きくしようとする利己的な存在だということです。このことから動物の利他的な行動がよく説明できるようになります。

 動物の利他的な行動の最たるものは、親による子供の世話です。利己的な遺伝子の観点から言えば、この一見利他的な行動も、親の遺伝子のコピーを広めるための利己的な戦略と言えます。最初に挙げた小鳥の警戒声にしても、自分の属する群れに(自分と同じ遺伝子のコピーを持っている可能性が高い)近縁の個体がある程度以上いるなら、その利他的行動も遺伝子の利己性によって説明できるはずです。ただし、より緻密な議論をするには本書で紹介されているゲーム理論や近縁度といった話題を理解しておいた方がいいのですが、この場で紹介するのは手に負えないので割愛します。他にも、自然淘汰において優位に立つには親はどれだけの子を産むべきか、母親はひいきの子どもを作るべきか、いつ離乳すべきか、たいていの動物でメスとオスが生まれてくる比率が1:1なのはなぜか、メスがオスを選ぶにあたってどんな戦略があるか、といった興味深いテーマも遺伝子の利己性の観点から説明されているのでよかったら見てみてください。

 以上は生物学的進化に関する話でしたが、次に文化的進化の話題に移りましょう。(ここで言う「文化」は単に行動様式や生活形態を指すのであって、鳥のさえずりなども文化に含まれます。)前回のリーバーマン『人体六〇〇万年史』では、人間の生物学的進化と文化的進化のペースの違いからさまざまなミスマッチ病が誕生し、それに対して人間は時として根本的な解決策を取らずその場しのぎの対策でやり過ごしている(ディスエボリューションしている)ことを見ました。もはや文化的進化を抜きにして現代人を理解することはできませんが、動物の利他行動を利己的な遺伝子によって説明するドーキンスは人間の文化面についてどのように考えていたのでしょうか。

 ドーキンスは「人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼ要約できる」とした上で、「現代人の進化を理解するためには、遺伝子だけをその唯一の基礎と見なす立場を放棄しなければならない」と述べています。つまり、さすがに文化や文化的進化を利己的な遺伝子や生物学的な有利さのみによって説明することはできない、というわけですね。

 ドーキンスは生物学的進化の主体である遺伝子の特性が自己複製子であることだったように、人間の文化的進化にも自己複製子としての特徴を持つ、遺伝子に相当する単位があると言います。それをドーキンスは「ミーム(meme)」と名付けました。ミームは人間の文化というスープで誕生した新登場の自己複製子で、「模倣」によってある人の脳から別の人の脳へと寄生して広がっていきます。例えばチョウチョ結びは、きっと大昔の誰かさんが発明したミームで、それが模倣を通じて他の人にも、後世の人たちにも、私たちにも広まってきているのですね。交響曲第5番「運命」の冒頭、「ダダダダーン」というのも200年ほど前にベートーヴェンが生み出したミームですが、多くの人は知らぬ間に覚えてしまったはずです。ドーキンスが生み出した「ミーム」というミームも、本書を読むことで私の頭に複製されましたし、私の書いた文章が伝わっていればあなたの頭の中にも「ミーム」というミームが複製されることでしょう。もちろんミームの間でも自然淘汰が起こるので、昔に流行したギャグのミームは新しいギャグに押されて次々と姿を消すでしょうし、昔は正しいとされていた学説ないし常識が今では全くナンセンスなものとして忘れ去られたこともあるはずです。

 ドーキンスが強調しているのは、ミームがその持ち主の生物学的な有利さや遺伝的な有利さに貢献しなくても、単にミームそれ自身の有利さという点で広まることができるということです。例えば「独身主義のミーム」、つまりその持ち主に独身でいるように促すミームがあります。このミームは利己的な遺伝子と真っ向から対立しますが、カトリックの神父や一部のお坊さんなどで見られるように、少なくとも千年以上も前から健在です。たとえそれは「生産性がない」などと言われようと、独身主義のミームが自己複製に成功する限りそれは今後とも存続し続けることでしょう。しかしもし持ち主に独身でいさせるような「独身主義の遺伝子」なるものがあったら、その遺伝子が広まることはまずないですよね。

 今回は生物学的進化にも文化的進化にもその主体となる「自己複製子」があることを見ました。それは生物学的進化においては遺伝子であり、文化的進化においてはミームにあたります。寿命・多産性・複製の正確さという点で優れた自己複製子ほど結果として数が増えていくので、「進化の過程において自己複製子は自らの数を増やそうとしている」といった擬人化もできます。遺伝子の場合、それを「遺伝子の利己性」と呼び、そういった遺伝子観を「利己的な遺伝子」と表現すると便利なのですが、遺伝子が意識を持っていて自己の複製という目的を志向しているなどといった誤解も招いたみたいですね。

 神や「知性ある何か」を想定せずに、複雑かつ多様な生物がいかにして誕生してきたのか、文化を含めて人間はいかに進化してきたのか、といった問いに唯物論の立場から答えるというのは私にとってとても興味深いテーマです。ドーキンスが示した「自己複製子」というミームはこの点でとても有望で、今回の読書の最大の収穫かなと思っています。

◆あとがき

 『利己的な遺伝子』、率直に言って私には難しかったです。一読し終わったときはあまりよく分からないままで、これではいけないと思ってもう一度読むと分かった気がしたのですが、いざ汗牛足で取り上げようとするとさっぱり進まなくて困りました。本当はもう少し早く発行しようと思っていたのですが、遅れた最大の原因はかなり苦戦していたことですね。私なりによく考えて書いたつもりですが、どこか間違っている箇所や、ここがよく分からないというところがあれば教えてもらえるとありがたいです。

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