汗牛足vol.34 実践的で楽しく学べる大人のための国語ゼミ

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.34 (2018.10.21発行)


◆今回は私が今年の夏休みに読んだ本の中で最も広くオススメできる本を紹介します。

■野矢茂樹(2018)『増補版 大人のための国語ゼミ』筑摩書房

 この本は以前に本屋で見つけてから気になっていて、夏休みに図書館で借りて読んでみたのですが、案外面白くてためになった本です。この10月に増補版が出たので早速購入しました。

 著者の野矢茂樹は哲学者で、論理学の本や、「論理」の名の付いた実用書などを出しています。その中でも『論理トレーニング101題』はそこそこ有名(?)で、こちらの本もやってみると面白かったのですが、今回紹介するのはそれよりもさらに一般向けにできている『大人のための国語ゼミ』です。ナニ、大学生なんぞに「国語ゼミ」なんて無用だろう、と思う方もいるかもしれませんが、それはおそらく思い違いです。

 大学生であってもきっとこの「国語ゼミ」が役立つはずだと思うのにはもちろん理由があります。それは、この国語ゼミで扱う「国語」は私たちが小・中・高の12年間で習ってきた「国語」とは目指すものが違うということです。国語の授業と言えば、教科書に載っている文章を授業で取り上げて、ある程度授業が進んだら定期テストがあって、また教科書の別の文章に移る、という流れの繰り返しだったように思います。そして、こうした授業で目指されていたのは、文章の内容理解、読解の力をつけることであり、あるいはそのための基礎となる漢字や熟語や文法といった知識の習得だったのではないでしょうか。また、取り上げられる教科書の文章も、古文・漢文はさておき、名作やよくできた評論など、自分たちが普段書くような「普通の」文章ではなかったと思います。つまり、自ら文章を書くという観点に立ち、実際に相手に自分の考えや意見を伝えることを目指した国語の授業はほとんどなかった、というのが私の記憶です。また、議題に関する主張文を読んで、単にその内容理解にとどまらず、その主張がきちんとした根拠を伴い、論理的に正しく論が展開されているかどうか批判的に吟味する、といったこともやりませんでした。ましてや、自分と意見の異なる人ときちんとかみ合った議論をして、お互いに納得できる結論に持ち込むというようなことはなかったわけです。

 このように、学校の国語というのは名作や名文の内容理解・読解に偏っていたと思うのですが、一方でこの『国語ゼミ』はまさにその偏りを補完するものではないかと思います。というのも、この国語ゼミは、相手の言わんとすることをきちんと把握し、吟味することに加えて、自分の言わんとすることを論理的に相手に伝える力をつけることを目標にしているからです。つまりこの本は、コミュニケーションのツールとしての国語力――これこそ誰もが必要としている力――を鍛えることを目指しています。

 そして、こうした実用的な国語力は、小・中・高等学校ではほとんど学ぶ機会がありませんでしたし、多くの場合、大学入試に通るために必要ではなかったのではないでしょうか。したがって、大半の大学生はこうした国語力をほとんど身につけていないだろう、というのが私の観測です。だから大学に入って一般教養科目でレポートを書け、なんて言われると途端に困ることになります。実際、大学の講義を受けているとレポートの書き方について「思い付きで文章を書くのではなくて、文としてまとまりのある、論理的に筋の通ったレポートを書いてください」などと口頭で全体に注意する先生がいたりするのですが、それは裏を返せば、レポートして体を成さないものを書く学生が無視できない一定数いるからでしょう。私の場合はレポート課題に大いに苦しみましたし、たぶん今学期も苦しむことになるのですが、それはそうやって自分で自分の考えを論理的に表現する練習をしてこなかったことが一因にあります。

 というわけで、読者の皆さんがこの種の国語力を身につけていないだろうと断定するわけでは決してないのですが、私と同様あまり自信がないという方は一定数いると思うのでこの本をオススメします。いや、案外いい本だったので自分の本を貸してでも読んでみてほしいくらいなのです。とはいえ、この本を読んだら国語力がつくのかというと必ずしもそうではないということは強調しておかなければなりません。この本はあくまでも始めのとっかかりとして、そして道しるべとして有用なのであって、あとは各自練習と実践によって鍛え上げるほかないというのが私の感想です。

 さて、ここからもう少し具体的な本の内容に入って、国語力向上のためのアドバイスを紹介しよう、と思って書き進めていたのですが、やっぱりやめることにしました。なぜかというと、この本は<いかにすべきか>について書かれた本、つまり、いわば方法論としての教科書やハウツー本などではなく、実際に演習をやりながら適宜アドバイスを交えていく形式になっているからです。実際に問題を解いてこそアドバイスも生きてくるので、アドバイスだけを拾い読みしてもあまり役には立ちません。著者の言うように、「泳ぎ方の解説を読むだけでは泳げるようにはならない」のですね。

 というわけで、ここでは本書の具体的な内容には立ち入らない代わりに、本書にある問題を私がまねて作ってみてはどうかと思い立ちました。作った問題は付録にしたのでよかったらやってみてください。ただし、作った後で気付いたのですが、本書の中の問題には見劣りしますし、まして私の問題を見れば「国語ゼミ」の雰囲気が分かる、という仕様にもなっていないので、本書とは別物と考えてもらった方がいいでしょう。

 最後に一つ付け加えておくと、この本は「楽しい」本です。その理由はところどころにマンガが登場すること。それも後付け感のあるマンガなどではなくて、ちゃんと本文の内容とかみ合っています。つまり、この本のマンガはときに進行係になり、そしてツッコミ役やまとめ役になって読者の内容理解を促進しつつ、ついでに息抜きを提供するというよくできた代物なのです。(なお、マンガは仲島ひとみという人が書いていて、今秋に論理を主題にした学習マンガを出すらしいです。)私ははじめにこの本は「広くオススメできる本」だと書きましたが、それは(もちろんこの本が扱う「国語力」を誰もが必要としているということもありますが、)楽しみながら読み進められる、という要素が備わっているからでもあります。

*旧版と増補版の違いについて。

 以上の紹介文を読んで、『国語ゼミ』をとりあえず借りて読んでみようかなと思ってくれた人(いるといいなあ)のために旧版と増補版の違いについて少し。

 増補版を読んだ方がいいのではないかと思うかもしれませんが、旧版でもほとんど問題ありません。というのは、増補版で新たに付け加わったのはすでに雑誌に発表された著者のエッセイと対談という「付録」だけで、本文そのものは大幅な変更はないからです。その上、増補版に収録された対談はネットでも読めます:https://dokushojin.com/article.html?i=2334[注:既にリンク切れで公開されていないようである(2024年4月)]

 実は増補版に収録されている対談はネットのものから少しですが一部省略されているので、むしろこっちを読んだ方がいいんですね。だったら収録してくれなかった方が本が薄くなってありがたかったのに。

【付録】以下、『国語ゼミ』の中の問題をまねて作ってみたものです。もっとたくさんの、いろんなバリエーションの問題を作りたいと思っていたのですが、私の力不足でした。それぞれの問題には解答と解説を付けましたが、私が間違っている可能性も大いにあります。ここがおかしいといったところがあればぜひ指摘してください。

■問1 次の文章の隠れた前提を指摘せよ。

:「今日のA君の髪の毛はボサボサだ。寝坊したんだろう。」
隠れた前提:A君は寝坊した場合にのみ、髪の毛をボサボサにしたままやってくる。

(a) 憲法九条があったからこそ、戦後の日本は戦争をせずにすんだ。だから、改憲すべきでない。

(b)
 独裁者が地域の境目に生まれやすいという傾向は世界に共通する現象であるらしい。
 中国においては、前漢の初代皇帝となった劉邦は華北と華中との境の地の農民であったし、後漢の光武帝も華北中原文化の南端に近い地域の出身で、魏の曹操の出身も劉邦のそれとほぼ同じである。明の初代皇帝となった朱元璋も華北文化の南限の貧農の出であった。
 ヒットラーが生まれたのはドイツとオーストリアの国境近くであり、スターリンの生まれたグルシアはキリスト文明とイスラム文明の間であった。日本でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は三人そろって現在の愛知県の出身だったが、ここは銀使いの西日本と金使いの東日本の境目のあたりである。
 つまり乱世に生まれて覇を争うには、画一的な教育によって頭の動きを固定されず、物事を相対的に考え、平衡感覚を働かせて現実に即した行動をすることが最も必要なのであった。

□解答

(a)
次の三点が隠れた議論の前提になっている。
・改憲することは、憲法九条を変えること。
・憲法九条を変えると、日本は戦争をするようになる。
・日本が戦争をするのはよくない。

*解説
 そもそも、「憲法九条があったからこそ、戦後の日本は戦争をせずにすんだ」という前提も大いに議論の余地があるが、仮にそれが正しかった(相手に納得してもらえた)としても、上記の3点を認めない限り、「改憲すべきでない」という結論にはならない。

(b)
 次の2点が隠れた議論の前提になっている。
・地域の境目で生まれた「独裁者」の数は、地域の中心部で生まれた「独裁者」の数よりも圧倒的に多い。
・物事を相対的に考え、平衡感覚を働かせて現実に即した行動をすることができる人材は、地域の境目に生まれやすい

*解説
 次のように問題文に段落番号を付けてみる。
(1)独裁者が地域の境目に生まれやすいという傾向は世界に共通する現象であるらしい。
(2)中国においては、前漢の初代皇帝となった劉邦は華北と華中との境の地の農民であったし、後漢の光武帝も華北中原文化の南端に近い地域の出身で、魏の曹操の出身も劉邦のそれとほぼ同じである。明の初代皇帝となった朱元璋も華北文化の南限の貧農の出であった。
(3)ヒットラーが生まれたのはドイツとオーストリアの国境近くであり、スターリンの生まれたグルシアはキリスト文明とイスラム文明の間であった。日本でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は三人そろって現在の愛知県の出身だったが、ここは銀使いの西日本と金使いの東日本の境目のあたりである。
(4)つまり乱世に生まれて覇を争うには、画一的な教育によって頭の動きを固定されず、物事を相対的に考え、平衡感覚を働かせて現実に即した行動をすることが最も必要なのであった。

 (2)と(3)は(1)の具体例であると同時に根拠になっている。しかし、(2)と(3)で挙げられた例は「独裁者」のほんの一部に過ぎず、地域の境目ではないところから生まれた「独裁者」も当然いるはずである。だから、本来は地域の境目出身の「独裁者」を数例挙げたところで(1)を結論することはできない。地域の中心部出身の独裁者は予想されるほど例が多くない、ということを示さなければならないはずだが、それが隠れた前提になってしまっている。(より細かい話をすれば、地域の周辺部と中心部との人口比にも言及しなければならない。そしてそれを地域の周辺部出身の独裁者数と地域の中心部出身の独裁者数との比と比較しなければならない。そこで当然統計学が必要になるが、まあそんなに厳密な話をしているのではないというのも確かではある。)

 そして(1)で「独裁者が地域の境目に生まれやすい」ということが言われていたが、なぜそのような現象が起こるのかを(4)で示している。すなわち、地域の境目で生まれた人間は「画一的な教育によって頭の動きを固定されず、物事を相対的に考え、平衡感覚を働かせて現実に即した行動をすること」ができたからこそ「独裁者」になれた、というわけだ。しかし、それを言うためには当然、<地域の境目で生まれた人の方が地域の中心部で生まれた人よりも「画一的な教育によって頭の動きを固定されず、物事を相対的に考え、平衡感覚を働かせて現実に即した行動をする」>ということを言わなければならないが、それが隠れた前提になっている。

■問2 次の文章が分かりやすくなるように、接続表現を補いながら書き換えよ。

 神社・寺院ともに、円柱は正式な柱で、角柱は略式な柱である。円柱は角柱から成形される。原木を正方形断面の角柱に成形し、その四隅の角部を削り落として正八角柱にした後、角部を削って正十六角柱にし、その角部を丸めてようやく円柱に仕上がる。削り落とされてしまう木材の体積は21.5%にもなり、手間も圧倒的にかかる。円柱が高価で格式が高いのは当然であろう。

□解答

解答として次の一例を挙げておく。

 神社・寺院ともに、円柱は正式な柱で、角柱は略式な柱である。なぜなら、円柱は角柱から成形されるからだ。つまり、始めに原木を正方形断面の角柱に成形し、次にその四隅の角部を削り落として正八角柱にする。さらに角部を削って正十六角柱にし、その角部を丸めてようやく円柱に仕上がる。ここで、角柱から円柱に成形する工程で削り落とされてしまう木材の体積は21.5%にもなり、手間も圧倒的にかかる。だから、円柱が高価で格式が高いのは当然であろう。

*解説

 問題文と解答例を読み比べてもらうと、読みやすさが格段に違うだろう。当たり前のようだが、ポイントは次の2つ。
・文どうしを適切な接続表現でつなぎ、それらの関係性を明示する。
・長い文は適度に区切る。

■問3 次の文章中で論理的に不適切な一文を指摘し、訂正せよ。

 民族の指標は一様ではなく、さまざまな考え方があるが、一つの有力な見方として言語を重要な指標とするものがある。つまり、同じ言語を共有する集団を「一つの民族」とみなすわけである。しかし、何をもって「一つの言語」とみなし、何をもって「方言」とみなすか自体が論争的である。なぜなら、言語どうしの差異の大小と、「同じ言語の中の方言かそれとも別々の言語か」という問題とが単純な対応関係にあるわけではないからだ。例えば、スペイン語とポルトガル語は「別々の言語」とされているが、その差異は日本の標準語と沖縄の言葉(うちなーぐち)との差異ほど大きくはないのである。したがって、ある言語が「方言」か「独自言語」かは、単に言語学的に決定されるものではなく、近代における「国民国家」形成がどのような範囲で進められるかに依存するのである。

□解答

不適切な一文:
「したがって、ある言語が「方言」か「独自言語」かは、単に言語学的に決定されるものではなく、近代における「国民国家」形成がどのような範囲で進められるかに依存するのである。」

訂正例:
「したがって、ある言語が「方言」か「独自言語」かは、単に言語学的に決定されるものではない。それはむしろ近代における「国民国家」形成がどのような範囲で進められるかに依存するのである。」

*解説

不適切な一文においては、「したがって」がどこまでかかっているのかについて、ひとまず次の二通りが考えられる。

(1)したがって、ある言語が「方言」か「独自言語」かは、単に言語学的に決定されるものではなく、近代における「国民国家」形成がどのような範囲で進められるかに依存するのである

(2)したがって、ある言語が「方言」か「独自言語」かは、単に言語学的に決定されるものではなく、近代における「国民国家」形成がどのような範囲で進められるかに依存するのである。

 そもそも「したがって」に続く一文というのは、その前の文章で言われたことの帰結である。そして、(1)の場合、<>内の文章はその前の文章からは帰結しない。なぜなら、「近代国家~」の話は前の文章に出ていないからだ。だから、(1)のように解釈すると、「したがって」の使い方が間違っているということになる。

 では、(2)の解釈なら問題ないかというと、そうではない。確かに、したがっての後の<>内の内容は前の文章からの帰結として正しい。しかし、「したがって<>、」に続く「国民国家~」の話はそれまでの文章では出てこなかった新しい内容であり、それが一文の途中から登場するのは適切ではないだろう。そこで、新しい内容を付加するならば、そこで一度分を区切り、適切な接続表現で文どうしをつないだ方がよい。

■問4 次の文章を、
(a)20字程度で要約せよ。
(b)70字程度で要約せよ。

 欧米よりも人種や民族の多様性の少ない日本の比較的均質な文化背景では、物事の考え方や価値観、そして流行までが画一化しやすくなる。さらにその結果として、同僚や上司からの評価や特に同世代の動向が気になりやすくなる。出る杭は打たれ、自分の意見をはっきり述べると集団から浮きかねない。自分の考えや主張をおさえ、自分を包み込む集団にあわせてうまくまざることが、文字通り「和」なのであり、学校でも会社でも組織に調和して行動することが求められる。当然の結果として、個人の独創性の芽は摘み取られる危険にさらされる。
 しかし、近代科学は欧米の個人主義のもとに発展してきたものである。江戸時代の和算やからくり人形のような日本独自の科学技術にしても、個人の創造力が開花したものであり、集団の営みによる産物ではなかった。現代日本の科学研究者は、どの程度まで自分の力を意識しているだろうか。たとえば、暗黙のうちに集団に同化しながら科学研究を行おうとしたり、研究室は基本的に先輩が後輩の面倒を見てくれるものだと思い込むならば、いずれストレスという形で表面化してくるだろう。自分の研究分野でどのような視点から自らの独創性を発揮できそうか、はっきりとした決意や自負がなければ、大きな研究集団であればあるほど過激になる研究者間の競争に巻き込まれて、自分を見失うことになる危険性が高い。そして、ただ上からの指示を待つだけでは、独創性は決して生まれないのである。

□解答

(a)科学研究者は独創性を発揮すべきである。(19字)

(b)個人の独創性は、日本の均質的な文化のもとでは発揮されにくい。しかし、それは科学技術の進展に不可欠のものであり、科学研究者に求められるものである。(72字)

*解説

 問題の趣旨について少し。『国語ゼミ』の著者は文章を木にたとえている。文章の中心的主張が幹であり、そのほかの言い換えや具体例、補足、横道が枝葉にあたる。文章の要約をするということは当然、文章の幹を捉えるということになる。しかし、文章は必ずしも幹と枝葉にきっぱりと分かれているわけではない。要約の字数によって、残すべきところ、切り取るところは変わりうる。そのためには、文章の中の「言葉の重み」に対する感覚を鍛えなければならない。というわけで、字数の異なる2つの問題を作ってみた。

 解答がなぜそうなるのかは、言われなくても分かる人と分からない人に分かれるように思う。分かる人は解説なしで問題ない。一方、分からないという人には多分この問題は難しすぎる。『国語ゼミ』では簡単な問題からステップアップしているので、そちらを見てほしい。いや、そもそもキミの解答は間違っているんじゃないか、という意見があったら歓迎します。

*以上、問題文作成にあたって参考にした本
ただし、問題文はいずれもそのままの引用ではなく、私が書き直しました。

問1の(b):宮崎一定(1977、文庫化は2015)『中国史 上』岩波文庫
問2:三浦正幸(2013)『神社の本殿』吉川弘文館
問3:塩川伸明(2008)『民族とネイション』岩波新書
問4:酒井邦嘉(2006)『科学者という仕事』中公新書

◆あとがき

 今回のような本を紹介するのには勇気が要りますね。なんてったって、「この本を読めば「国語力」が鍛えられる」ということで紹介しているのですから、紹介している本人に国語力がなかったら誰も耳を傾けないことでしょう。もちろん、本文でも書いたように、私は自分にはまだ十分な国語力があるとは思っていませんし、事実今回の汗牛足もさんざん文章作成に悩んで、いつもよりちょっと遅めの発行になってしまいました。

 「国語力」があるかないかは、どれだけ相手にきちんと分かってもらえるか、あるいは、どれだけ相手の話をきちんと理解できるか、ということにかかっています。実は、これは「相手に自分の話を分かってもらいたい」とか、「相手の話をきちんと理解したい、納得したい」という熱意と深く関わってくる問題なのです。なぜなら、そもそもそういった熱意のない人には、相手に分かってもらおうともがいたり、相手を理解しようともがいたりする機会がなく、自分に国語力が必要だとも思わないからです。

 だからこそ、著者の野矢茂樹は国語力を鍛えるにあたって、まずは「相手のことを考える」ということが根本になければならないと言います。<相手のことを考えて分かってもらおうとする→分かってもらえるような説明をしようとする→国語力が鍛えられる>という関係にあるからです。

 私が今回の汗牛足を書いていて改めて思ったのは、やはりこの汗牛足も「読んでくれる人に分かってもらいたい」、そして「この本を紹介したい」という熱意と、読者の目線に立つことを大切にしなければならないな、ということです。それでこそ私の国語力が鍛えられるでしょうし、読者のみなさんにも汗牛足を理解しようと、あるいは紹介本を手に取ってみようと、思ってもらえると考えるからです。

 さて、では今回の汗牛足の内容はよく分かりましたでしょうか?なんだか分かりにくかった、ということであればそれは私の「国語力」不足が原因で、この本を紹介するには私は未熟だった、ということになるでしょう。面倒でしょうけど、どういうところが分かりにくかったとか、質問を送ってもらえるとありがたいです。いや、内容は分かった、自分には伝わった、という人も、何か気になるところ、おかしなところや反論はありませんでしょうか?例えば、私はたいていの大学生には「国語力」がないなどと書きましたが、そんなことはない、とか。いやいや、実は内容の理解以前にあんまり読む気がしなかったんだ、という方、とりあえず最後まで目を通していただきありがとうございます。お手数ですが、件名:「もっと面白いものを!」で返信してもらえると励みになるのでよろしくお願いします。

コメント