汗牛足vol.35 サピエンス全史――21世紀必読のベストセラー

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.35 (2018.11.17発行)


◆紅葉の季節がやって来て2018年も残り少なくなりましたね。ちょっと気が早いですが、ここでみなさんにこんな質問をしてみたいです。

Q:2018年に読んだ[出会った]本の中で、一冊だけ手元に置いておけるとするならどの本を選びますか?

 いや、今年はあんまり本読んでなかったな、という方もいるかもしれませんが、「この本こそは今年最大の収穫!」といったものがあったら教えてもらえるとうれしいです。私の場合は、ほぼ迷うことなくこの本ですね。

□ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之(訳)(2018)『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来(上・下)』河出書房新社(ヘブライ語版は2015年、英語版は:Yuval Noah Harari (2016), Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

 著者のユヴァル・ノア・ハラリはイスラエルの人で、ヘブライ大学で歴史学を教えているそうです。この『ホモ・デウス』の前作、『サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福』は世界的ベストセラーになったので知っている人も多いことでしょう。前作の『サピエンス全史』では、著者は人類のこれまでの歩みについて書いていましたが、その続編である『ホモ・デウス』では人類の未来について論じています。これらの2冊を合わせると、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ポール・ゴーギャン)という問いに対するハラリなりの回答が示されていると言ってよいと思います。私はこういうスケールの大きな、答えのない問いについて考えるのが好きなので、この2冊を読んでいてとても楽しめましたし、考えさせられることが多かったです。

 特に『ホモ・デウス』は前作の『サピエンス全史』以上に面白く、なおかつ重要な著作だと思いました。それは人類史的なスケールにおける現在の私たちの位置を見極め、そしてこれからの時代を見据えるための重要な考え方ないしヒントがこの本に詰まっていると感じたからです。私がせっかちなだけかもしれませんが、この本は21世紀の最も重要な著作の一つになるのではないかとまで思っているくらいです。

 と、ここまで『ホモ・デウス』を褒めたからには、本書のどのあたりがすごいのかについて書かなければなりませんね。是非ともそうしたいところですが、やっぱり『ホモ・デウス』をこの汗牛足で取り上げるのはもう少し先延ばしにしておきたいと思います。申し訳ありません。まだ一度読んだきりでちゃんと読めた気がしないので、もう少しじっくり読んでから取り上げたいのです。

 では今回は何を取り上げるかというと、その前作『サピエンス全史』です。先ほど『ホモ・デウス』の方が面白いと書きましたが、いやいや、『サピエンス全史』も相当面白いんですよ。

■ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之(訳)(2016)『サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福(上・下)』河出書房新社(ヘブライ語版は2011年、英語版は:Yuval Noah Harari (2014), Sapiens: A Brief History of Humankind)

 この本は紹介するまでもないベストセラー本の類なので、それを2年遅れで取り上げるなんて遅い、遅すぎる、と私自身思いながら書いています。なぜ遅くなったかというと、読み始めるのが遅かったからです。もちろん、本屋を徘徊するのが得意な私は、この本の存在を2年前の秋から知っていました。しかし白状すると、この本はどうも読む気にならなかったのです。

 読む気にならなかった最大の理由は、この本がベストセラーだったこと。なぜベストセラーは読む気にならないかというと、うーん、私がへそ曲がりだからでしょうか;流行の本・話題の本を、単に「流行っているから」という理由で読むのはミーハーな感じがしてイヤだったのです。なおかつ、ベストセラーなんて所詮、数年経てば古本屋で安く売られる運命であり、読むに値しないものだと考えていました。むしろ人々に長く読み継がれてきたロングセラーや、古典の類を自らの糧として読むことこそ、私が大学生としてやりたいことだと思っていたのです。

 おまけに、この本の出版形態もよくなかった。上下2分冊で合計4000円くらいするし、ハードカバーの本でかさばるし、極め付きは「全ビジネスマン必読の新しい教養書」などという商魂たくましいオビまでついていたのです。私はこのような形で売られている本に対して、その内容を吟味する以前に、自分には縁のない本だという評価を下してしまいました。しかしその反面で、心の片隅ではこの本のことがずっと気になっていたのです。

 そんな私がこの本を読む一歩を踏み出すために必要だったのは、「大義名分」でした。たとえば、この本が文庫化されて、お安く、コンパクトになるとか。しかし、なかなか人気は衰えないらしく文庫化される気配はありません。現在でもハードカバーのままなので、私がもしこれとは別の大義名分を思いつかなかったら、おそらく今もこの本を読んではいなかったことでしょう。しかし今年の梅雨の季節になって、私はとうとう大義名分を見つけることができました。つまり、(大学院試で必要になるかもしれない)TOEFLテスト対策の一環として、この本を英語で読んでみてはどうだろうかとひらめいたのです。こうすれば、英語の勉強にもなりますし、邦訳本の3分の1ほどの値段(当時のKindle版価格)で買えるのです。実際英語で読んでみると、自分の貧しい語彙力では知らない単語の連続でしたが、文そのものは比較的平易で1カ月足らずで読み終えました。

 そのときの感想:つべこべ言わずにもっと早く読んでおけばよかった!

 得られた教訓:書籍の本質は、その内容、それが有する情報にこそある。したがって、本を購入する際の最大のポイントはその内容であって、それ以外のこと、例えばその本が物理的にコンパクトかどうかとか、いくらで売られているかとか、流行っているか、といったことは副次的な要素に過ぎず、極端に言えばどうでもよいことである。本の評判、ジャンル、物理的形態、価格に惑わされることなく、まずその本の内容が自分にとって必要か、役に立つか、面白いかを問わねばならない。

 私は結局、邦訳の上下本も購入して、今度は英文と訳文を見比べながらこの本をじっくり再読しているところです。(邦訳版は日本人向けに例が差し替えられていたり、章のタイトルが変わっていたりすることに気づきました。)

 さて、私事はこのくらいにして本の内容に入りましょう。はじめの方で少し書いたように、この本は人類、とりわけ私たちホモ・サピエンスのこれまでの歩みをマクロな視点から描いたものです。本書によれば、人間の歴史の大きな流れは3つの革命によって決定づけられました。すなわち、認知革命、農業革命、科学革命の3つです。本書の記述は、これらの革命が人間の文化・文明に与えた影響を軸にして、それに関連する豊富な話題を織り交ぜながら展開していきます。

 では、初めの革命、「認知革命」とは何なのでしょうか。本書によると、およそ7万年前にホモ・サピエンスの認知的能力に革命的な変化が起こったらしく、それを「認知革命」と呼んでいます。この革命によって、実在しない、ありもしないものを想像したり、それを他者と共有したりすることができるようになりました。これはつまり、人間が虚構を想像したり共有したりできるようになった、ということです。では、それができることの意義、認知革命の意義は何でしょうか。実はそれについては私が説明するよりも、うってつけの動画があるのでそれを見てください。ユヴァル・ノア・ハラリのTEDでのプレゼン(2015)です:

 いかがでしたか。ハラリのプレゼンは生き生きとした具体例と冷笑的なユーモアが魅力的ですね。(この魅力は『サピエンス全史』でも存分に発揮されています。)プレゼンのテーマは、「我々人間は、取るに足りない先史時代の祖先から、地球の支配者へといかに転身したのか」ということでした。そしてその答えは、「非常に多くの見ず知らずの人間が柔軟に協力できるから」というものです。では、なぜそのような協力が可能になったかというと、人間には(認知革命によって獲得した)想像力があるおかげで、虚構の物語を作ったり信じたりすることができるからでした。例えば宗教はもちろん、人権、国家、会社、そしてお金はフィクションに過ぎないのですが、そういったものを信じることで人間は大規模かつ柔軟に協力している、というのです。

 ここで、「柔軟な協力」ということについてもう少し深掘りしてみましょう。ハラリはプレゼンで、ハチやアリなどの社会性昆虫は膨大な数の個体が協力することができるが、その協力のあり方、社会体制はrigidなものであって、flexibleなものではないと言っています。なぜなら、(本書によれば)社会的な動物の協力行動は、遺伝子によってほぼ決まっているために、突然変異なしには大きな変化が起こりえないからです。これはチンパンジーやボノボなどの類人猿でもおおむね当てはまります。例えばチンパンジーの場合は、「アルファオスの率いる階層的集団で暮らす遺伝的傾向を持っている」のであって、ボノボのように「メスどうしの連合が優勢な、より平等主義的な集団で暮らす」ということはしません。しかし人間の群れは、より多様な社会を形成していました。例えばイギリスによる征服以前のオーストラリアには200から600の部族がいて、各々独自の言語、宗教、規範、習慣を有していたそうです。ある部族は父系の血統を重視し、他方では母系の血統を重視する、ということが起きていましたが、それは彼らの間の遺伝的差異に基づくものではありませんでした。ゲノムによってチンパンジーとボノボの社会構造の差異がある程度説明できたとしても、人間の部族間の差異は遺伝的基盤に基づくものではないのです。

 人間の行動パターンは遺伝子によって規定されていないので、自ずと多様性を持ち、変化し続けることになります。また、彼らがその想像力によって生み出した虚構も同様に、多様性を持ちながらどれも変化し続ける性質のものです。歴史とは、文化と呼ばれるそうした行動様式や想像の産物の変遷のことだと言えるでしょう。だからこそハラリは、「認知革命は歴史が生物学から独立を宣言した時点だ」と言います。つまり、それまでホモ・サピエンスについては他の生物同様に生物学で説明できていたのに、認知革命以後は生物学だけでは説明できなくなった、そこで代わりにホモ・サピエンスの発展を記述するのが歴史だ、ということです。以前リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を取り上げたときに、「現代人の進化を理解するためには、遺伝子だけをその唯一の基礎と見なす立場を放棄しなければならない」というドーキンスの言葉を紹介しましたが、何も現代人に限らず、認知革命以降のサピエンスは遺伝子の変化だけでは説明できない存在になったと言えるでしょう。

 歴史を始動させたとも言える認知革命の後、数万年間の狩猟採集民時代を経て、次に起きた革命は農業革命です。ただし、革命とはいえ農業革命は数千年かけて漸進的に起こりました。農業革命が起こると、それまで狩猟採集によって生活していた人間は、ごく少数の動植物を育てることにあくせくするようになりました。農業を始めて、個々人の生活が楽になったか、安定したか、健康になったかというと、いずれも答えは否です。しかし、サピエンスという種全体としては、この革命によって指数関数的に数を増やすことができました。そうなると、農耕をしない少数のエリート層が支配する、都市や王国、帝国といった巨大なネットワークができるようになります。しかし、人類は何百万年も数十人規模の集団で生活してきたので、これほど大規模な社会を維持するための生物学的本能を持ち合わせていませんでした。そこで、サピエンスは2つのものを考案することでその課題を乗り越えたとハラリは書いています。すなわち、想像上の秩序と、書記体系の2つです。

 想像上の秩序とは何かというと、人々の間で共有された「神話」に基づく秩序のことです。例えば先ほどのプレゼンで出てきた宗教、人権、国家、会社、そしてお金は、人々の間で共有された「神話」であって、こうした神話によって社会秩序が維持されていると言えます。もちろん現在の私たちもこうした神話にどっぷりと浸かり、想像上の秩序の下に暮らしているのです。

 書記体系もまた、巨大な国家や帝国を維持するために必要不可欠なものでした。書記とは脳の外で情報を保存したり処理したりするシステムで、このおかげで生物学的な脳の限界を乗り越えられるようになりました。しかし、帝国を統治するには単なる書記では不十分で、それが膨大な量になっても迅速かつ正確に利用できるように整理されていなければなりませんでした。こうした情報の管理、処理ができるためには訓練が必要で、それが官僚制へとつながっていきます。

 

 その後、人間の歴史は、大局的に見れば文化的統一の方向に進みました。もともと無数の独立した文化が各地にあったのですが、それが一つのグローバル文化へと包摂されていったのです。このときの大きな原動力となったのは、3つの普遍的秩序、すなわち貨幣、帝国、宗教でした。個人的には、このあたりの記述を読むと、貨幣、帝国、宗教についての今までの素朴な見方がひっくり返される思いがしてなかなか面白かったです。

 以上がだいたい邦訳版の上巻に相当する内容紹介です。面白さが本書の1000分の1くらいに縮小されていることを断っておきます。3つ目の革命である科学革命については下巻に書いてあるのですが、こちらは次回号で取り上げることにします。

◆あとがき

 私はこの本について、「本書の記述は、認知革命、農業革命、科学革命の3つの革命が人間の文化・文明に与えた影響を軸にして、それに関連する豊富な話題を織り交ぜながら展開していきます」と書きました。実はこの「関連する豊富な話題」というのが本書の学際的、多角的アプローチの根幹であって面白さ抜群なのですが、残念ながら今回の紹介ではそれらをほとんど取り上げることができませんでした。代わりに私がやろうとしたのは、その「軸」の部分をなぞることでした。これでよかったのか?という疑問もあるのですが、まあ今回はこれで勘弁してください。

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