汗牛足vol.38 ホモ・デウス――人類の未来を考える

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.38 (2019.2.16発行)


前回まで紹介していた『サピエンス全史』の続編とも言える『ホモ・デウス』を紹介します。

■ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之(訳)(2018)『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来(上・下)』河出書房新社(ヘブライ語版は2015年、英語版は:Yuval Noah Harari (2016), Homo Deus: A Brief History of Tomorrow)

 ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』ではサピエンスのこれまでについて見てきました。一方の『ホモ・デウス』はサピエンスの未来に重点を置いています。ただし、この本は人類の未来を予言したり予想したりするものではありません。ましてや、我々はこのような未来を目指すべきだ、といった指針を示す本でもありません。

 私は以前の号で、『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』の2冊を合わせると「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いに対する回答になっている、と書いたのですが、これは少し間違っていました。というのも、実は「我々はどこへ行くのか」については著者のハラリはあまり書いていませんし、それが主題というわけでもないからです。むしろ、この『ホモ・デウス』で提示されているのは、「我々はどこへ行きたいのか」を考えるための材料なのだと思います。結局のところ、未来がどうなるかなんて誰にも本当のところは分かりません。しかし、本書を読んで過去と現在についての理解を深めることで、人類の未来についてもっと豊かに想像することができるようになるかもしれません。

 そんなわけで、巨視的に人類の未来を考えてみたい人にはこの本はうってつけだと思います。あるいは、自分の持っている価値観や世界観を一度突き崩してみたいという人にもかなりオススメです。前作を読んでいなくても特に問題ないので、この春休みにでも一読されてみてはいかがでしょうか。

 『ホモ・デウス』というタイトルの「デウスDeus」というのは「神」の意です。著者はこの本で、現在の私たちホモ・サピエンスHomo Sapiensをホモ・デウスHomo Deusにアップグレードすることが21世紀のミッションになるだろうと書いています。つまり、人間自身を改造することで、例えば不死であるとか、幸福(≒より持続的で強度の快楽)といったものを手に入れようとするだろう、というわけです。ホモ・デウスとは、もはや自然選択の産物などではなく、意図的に創造された次世代の人類であり、さまざまな面でホモ・サピエンスを超越した存在なのでしょう。もちろん、このアップグレードはある時点で一気に達成されるようなものではなく、漸進的に達成されていくもので、実は今もう既に起こりつつあることだといいます。

 ホモ・デウス?ナンダソレ。人間が永遠の命や至福を獲得するなんてバカげている、と思う方も多いはずです。しかし、ハラリが書いているのは、ホモ・デウスへのアップグレードがいつの日か達成されるだろう、ということではなくて、人々はアップグレードを目指すだろう、ということです。また、アップグレードすべきだ、とか、それが望ましいことだ、などと書いているわけでもありません。そうではなくて、現在の人々が持っている価値観や規範に従う限り、人々はこうしたことをやろうとするだろう、という一つの予測なのです。

 では、人々をホモ・デウスへのアップグレードへと駆りたてる価値観ないしイデオロギー・宗教とは何なのか。著者によると、それはヒューマニズムhumanism(人間至上主義)という、ここ300年に渡って世界を支配してきた「宗教」です。(ハラリによる「宗教」の定義は一般に思われているものとは異なります。)ヒューマニズムにおいては、ホモ・サピエンスの生命や幸福、そして繁栄が尊重されます。あなたもヒューマニズムの世界に生まれてきた以上、少なからずその教義を自明視しているはずです。人命を尊ぶからこそ、人々の健康と長寿と幸福を重視し、それは究極的には不老不死と至福への理想に行きつくのです。したがって、近年著しく進歩しているテクノロジーとヒューマニズムの信奉者がタッグを組めば、彼らが自らのアップグレードを目指すというのはある意味当然の帰結といっていいでしょう。

 科学技術の進展は世界を変える原動力にはなりますが、科学技術をどのように用いるかという問題に対して、科学技術そのものが答えを与えることはありません。つまり、科学は(事実ないし真理についての記述は与えてくれますが)倫理的な判断や物事の価値や意味を教えるものではないので、何をすべきかに関して何ら回答を与えるものではないのです。そうしたものは科学ではなく、宗教やイデオロギーが与えてきました。

 世間をにぎわせているAIやゲノム編集にしても、それをどのように用いるのかは私たち次第であり、そこで人々の指針となるのは自らが信じる宗教・イデオロギーということになるでしょう。もちろん、人類の未来を考える上でAIやゲノム編集について詳細に調べてみるということも一理ありますが、「何をすべきか」についての回答を与える宗教・イデオロギーというファクターについての理解を欠いてしまうと、未来の考察はアンバランスなものになってしまうはずです。

 歴史学者である著者がこの『ホモ・デウス』の中で読者に提供しているのは、まさにそのファクター、つまり宗教・イデオロギーに関する議論が主であると言っていいでしょう。そして、科学技術の運用においてとりわけ大きな影響力を与えている宗教がヒューマニズムである以上、このヒューマニズムの歴史と未来を探求しないことには、本当の意味で人類の未来を考えることなどできはしないのです。

 ハラリは本書の中で、歴史を学ぶ意義について書いています。ハラリによれば、歴史を学ぶ目的は未来を予測することではないそうです。むしろ、自分たちが自明視している価値観や規範から一度自らを(不完全にせよ)解放し、他の可能性を模索することにある、と言います。

 人はしばしば自らの持つ価値観や、倫理観、世界観を普遍的で正しいものとみなし、そのルールの中でどれだけ自分をコミットさせて成功するかにあくせくしがちです。しかしそこから一歩引いて、自分を歴史的な文脈の中に位置づけることで、そうした価値観や世界観が唯一の正解ではないことに気づけます。このように、他の選択肢や可能性に気づいて自分を特定の価値観で縛らないこと、これこそ豊かな心というものだと思いますし、私が学生時代のうちにやっておきたかったことです。

 ヒューマニズム誕生の前提条件となる人類の隆盛と、ヒューマニズムの興隆、そして現代におけるヒューマニズムの危機と、それに取って代わりうるデータ至上主義Dataismという新しい宗教について、この本に書かれていることを逐一紹介することはしません。もし興味があれば本書を手に取ってほしいですし、1時間程度でざっくり知りたいということであればうってつけの動画(ハラリ自身の講演)があるからです:

 私としてはこの本はとてもオススメですが、人によって向き不向きがあるというのも事実でしょう。私が思うに、今自分の持っている価値観や規範に安住しておきたいという人、そういったことに疑いをさしはさむこと(≒哲学すること)に意義を見出さない人、その余裕がない人がこの本を読んでも、特に得るものはないでしょう。例えば本書の日本語版のアマゾン・レビューはそういった人々と本書とのすれ違いや彼らの誤読と誤解を赤裸々に語る駄文の殿堂になっています。

 そこで、どれほど正確かは分かりませんが、あなたと本書の相性をテストする簡単な方法を思いついたので紹介しましょう。本屋に立ち寄ったときに、平積みにされているであろう『ホモ・デウス』の上巻を手に取り、224ページの6行目から225ページを立ち読みして下さい。思わず笑ってしまったとか、痛快だった、という方はそのままレジへどうぞ。きっと面白く読めるでしょうから大丈夫です。ぜんぜんユーモアが分からなかったという方、どうかお気になさらず。とりあえず本を元のところに戻しておきましょう。

◆あとがき

 今回も本をどう紹介したものか悩みました。家畜の境遇や自由意志についての議論といった個人的に面白いトピックもたくさんあったのですが、一応この本が全体としてどんな内容なのかも書かなければなりません。木を見て森を見ずではいけないので、とりあえずどんな森なのかは書いたつもりです。個々の木については、まあ興味のある方や本を読んだ方が私に話題を振ってくれるとありがたいと思います。

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