汗牛足vol.6 教養小説のすすめ

読書

「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。


汗牛足(かんぎゅうそく)vol.6 (2016.8.13発行)


◆夏休みですし、たまには内容を変えて、今回は小説を紹介します。といってもここで取り上げるのは「教養小説」と呼ばれるものです。

教養小説とは何でしょうか。読んだら教養が身につく小説でしょうか、いえいえそうではないんです。ネット上のレヴューなどを眺めていると残念なことに教養小説は読めば教養が身につく小説のことだと、なんともまあご都合のいい解釈をしている人が多くいます。もっとも誤解も無理のないことで、じつはドイツ語で言う“Bildungsroman”の訳語なんですが、訳が悪すぎるんです。いっそのこと「ビルディングスロマン」とダサいカタカナにした方がよかったと思うのですが、あえて訳すなら「(自己)形成小説」とでもするべきでした。(そもそも教養という言葉は人によっては解釈というか、受ける印象が違うようで、ぼく自身は教養とは自己形成に欠かせぬもので、あるいはその人の世界観に影響を与え、その基となるもので、強いて言えば一生役立つものだと思っていますが、人によってはほとんど雑学と混同している人もいます。)それはともかく、教養小説とは何か、というと、これはもちろん文学部の教授にでも聞けば文学史をふまえてあれこれ諸説あるんでしょうけれども、ここでは簡単に次のように定義します:一主人公が、さまざまな経験を経て、精神的に成長していく様子を描いた物語。

ここでぜひ、なぜ教養小説を読むのか、という問題に触れさせてください。ぼくは高校一年のころ、つまりあまり本を読んでなかったころ、小説というのはテレビと同様時間の浪費ではなかろうか、という疑問を起こしました。もちろんこれは小説とは何かを明らかにしないと議論のしようがないのですが、ある種の小説については、所詮多くのテレビ番組と同様に一過性の娯楽に過ぎないと今でも思っています。しかし、小説といってもいろいろあるのであって、古典的な名著や、とりわけ「教養小説」と呼ばれる一群は若いうちにぜひとも読んでおくべきものだと思うようになりました。それは、その小説が果たして、読者の糧となるのか、読者にとって心の支え、精神の軸とでも呼ぶべきものになりえるかどうかという観点に立ってのことです。もし人が本を読んで楽しみたい、気晴らしをしたいというのであれば、先ほど言ったある種の小説は娯楽として存在価値がおおいにあるでしょう。たまにはそんなのもいいと思います。しかし、今のぼくの関心は、小説を読んで果たして自分は何を得るのだろうか、という点です。この点では、とりわけ「教養小説」と呼ばれているものは概して得るものが多い、読んでよかったなとか、これからも何度か読み返すだろうと思える本が多いというのがぼくの意見です。

教養小説にでてくる主人公は未熟です。しかし、その主人公はそこから成長します。精神的に成長し、自分なりの道を見出し、人間として完成されていくのです。読み手であるぼくは、そしておそらくこれを読んでくれているみなさんも、自己形成のただ中にあります。自覚がなくてもおそらくそうなんです。何らかの出来事を通して、時には逆境にあって、少しずついろんな物事が見えてくるようになり、ものの見方が洗練されて、と同時に忍耐や精神力が鍛えられていきます。まさにそんな過程にある中で、作中の主人公の自己形成の物語を読むことは、自分のこれからの自己形成を考えるうえで、とても参考になる…といっては変ですが、いい刺激になると思います。あるいは、この教養小説を読むことそれ自体が、自分のかけがえのない体験となって、自己形成の糧となります。読むなら今です、10年後に読んでもダメでしょう。ぼくはそういう理由ですっかり大人になってしまう前にこれらの小説を読むことを勧めたいです。

これから読もうとする人のために少し付言しておくと、どうか読書を一過性のもの、その場限りのものにならぬよう注意してほしいです。これは自戒を込めて言っています。僕の中でも読み捨てているようではいけないという反省があるからです。自分はこの本を読んだという事実そのものには何の価値もありません。問題は、それがどんなふうに自分のものの見方や考え方、あるいは生き方に反映されてくるのか、ということです。そのためにただ本を読むだけではなくて、その本を通して考えるということが大切だと思います。右から左に受け流すのではなく、ちょっとこだわって自分なりに、何かを感じ、何かを考える時間を確保するんです。俺はこの本を読破した、だからもう解放された、読まなくていいんだ、というような本末転倒なことにはなりたくないのです。その意味で、極力本を買って読むことを勧めます。借りて読むと一過性の読書になりやすい、モノが手元に残らないから思い出すきっかけもなくなって、おそらくその本を反芻することは一生なくなってしまいます。本を買ったら古本で売ることなど考えずに、何か感銘を受けたところに付箋を貼ったり、線を引いたりしてどんどん痕跡を残しましょう。そのほうが自分にとってよっぽど価値のある本になります。何カ月や、何年かあとにふと手に取ると、自分の読み方や受ける印象が驚くほど変わっていることに気付くはずです。こうやって長期的な視野に立てば、これから紹介する本は決して高いとは言えないと思っています。

■下村胡人『次郎物語』新潮文庫(全三冊)

超おススメです。長らく積ん読にして最近になってやっと読みましたが、もっと早く読んでおけばよかったと思いました。主人公の次郎君を少し紹介すると三人兄弟の真ん中の子なんですが、顔がサルに似ているとかで乳母にあずけられ、実家に戻ってもなじめず、かわいがられず不運不遇の少年時代を送ります。しかしよき師や親戚のおかげでむしろたくましく成長していきます。親しい人が亡くなり、家運が傾き、学校と決別し……と艱難多しですが、それが人を玉にするのですね。

■サマセット・モーム『人間の絆』(1915)岩波文庫、新潮文庫

「ニンゲンノキズナ」と読むと聞こえがいいですが、この絆というのはキズナと読むよりホダシと読む方が内容に合ってます。原題 “Of Human Bondage” ですから「人間の束縛について」くらいになるそうです。人間の束縛とは何のことかというと間違いなく主人公の恋人のことです。理性ではバカげていると分かってるのに悪縁を断ち切れない主人公の苦悩が全体の三分の一を占めます。その辺は俗かもしれませんが単なる通俗作家で終わらないのがこのモームのすごさ。自伝的な要素もあって読み応え十分です。

■ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』岩波文庫

これぞ教養小説の最高峰!ある程度古典的な小説に慣れているなら読まない手はありません。大長編で内容の重さから言っても決して短期間で読み通せる代物ではなく、むしろじわじわと長期間にわたって読むべき本だと思います。そして、この本を読んでいる期間はまるでもう一つの人生を生きるが如く、一生忘れられない感銘を受けるはずです。(少なくともぼくはそうでした。)主人公ジャン・クリストフの嵐の如きその生涯は、真に生きるとはどういうことか多くの示唆を与え続けてくれます。

◆あとがき

紹介した三冊はそれぞれ日本、イギリス、フランスを代表する教養小説といっていいと思います。しかし人によっては、あれあれドイツはどうしたんだと思うかもしれません。というのも教養小説は特にドイツで盛んだったそうで、確かに元祖教養小説と呼ばれてしかるべきゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』とか、ヘルマン・ヘッセの問題作『デミアン』、さらにはトーマス・マンの『魔の山』などの大作があるからです。できればドイツからも一つ紹介したかったのですが、どれも読むのに骨折れてまともに読めていないので見送ることにしました……

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