汗牛足Bは本の紹介を行う「汗牛足(かんぎゅうそく)」のBusiness版である。純粋なビジネス書に限らず、”社会人として読んでよかった本”くらいの緩い範囲で選書して紹介していきたい。
今回はそのキャッチーなタイトルで品切れが続出したというこの本を取り上げます。
汗牛足B vol.4 (2024.6.10発行)
・ 三宅香帆(2024)『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書
★本書を読んでわかること
- なぜ働いていると本が読めなくなるのか
- 近代以降の日本の働き方と読書の関係
- どうすれば労働と読書が両立する社会ができるのか
★サマリー
イントロ
働きながら、文化的な生活を送ることが、とても難しくなっている。これは、現代の労働が、労働以外の時間を犠牲にすることで成立しているからである。しかし、そもそも本も読めない働き方が不通とされている社会が異常なのではないか。(著者は、本をじっくり読むために、社会人3年目で会社を辞めた。)なぜ現代において労働と読書の両立が困難なのか、という問いの答えは、近代以降の日本の労働と読書の関係をたどることで導き出せる。
読書と労働の歴史
明治~大正:日本の近代化の過程で、国家が青年たちに立身出世を追求させた。また、修養という名の自己啓発を煽る書籍や雑誌が流行した。さらに修養の一つの系譜として、立身出世の手段としての教養を重視する傾向が生まれた。
戦前~戦後:サラリーマンという新中産階級が誕生した。彼らが書籍を読むことで、書籍がエリートが独占するものではなく大衆の娯楽になった。円本や全集などの教養を大衆に啓蒙する書籍がヒットした。
高度経済成長期後:もはやサラリーマンにとって読書は立身出世のために読むものではなく、テレビと連動して売れる娯楽のひとつとなった。テレビ売れという大衆向け書籍のベストセラーにより書籍の売り上げはピークを迎えた。
バブル崩壊後:労働環境が変化し、情報社会が到来する中で、自分の意図していない知識を頭に入れる余裕のない人が増え、自己啓発書が売れるようになった。
働きながら本を読むにはどうすればよいのか
読書とは、自分から遠く離れた文脈に触れることだ。しかし、仕事に追われている私たちはそれをノイズと捉え、頭に入れる余裕を持たない。仕事のノイズになるような知識をあえて受け入れ、仕事以外の文脈を思い出し、そのノイズを受け入れることが、働きながら本を読む第一歩である。
新しい文脈がノイズとして捉えられ、受け入れられないときは、休息が必要だ。本を読むということは、今、働くことにはつながらないとしても、どこかで自分につながるかもしれない文脈を知ることである。働きながら働くこと以外の文脈を受け入れる余裕がある社会こそ、健全な社会だ。
非効率な長時間労働をなくす
日本企業の長時間労働の背景として、終身雇用がある。普段は長時間労働をさせて残業代を払い、景気後退時には残業代を減らすという「残業の糊代(バッファ)」は企業にとっての必要悪ではあるが、現代の個人にとってその働き方は非効率で合っていない。これが、「仕事以外の文脈を取り入れる余裕のない」社会を形成している。
また、新自由主義の能力主義は自己責任と自己決定を重視し、それが自発的な頑張りを助長している。働きながら本が読めなくなるくらい全身全霊で働きたくなってしまうように個人は仕向けられている。
働きながら本が読めない社会からの脱却に当たっては、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会をやめ、「半身」を理想とする社会に転換する必要がある。
★ボクのコメント
ボクの本棚には学生時代に購入した本が、積読本も含めてびっしり並んでいるのだが、社会人になってから読めた本は本当にごくわずかである。ボクも働き始めると、有限なリソースである集中力というものが消耗し、仕事以外の時間に活字を読んで理解するということが困難になった。
「忙しい人ほどテレビを見る」という言い回しをどこかで聞いたが、これは「忙しい人ほどテレビ(その他の受け身でよい動画)を見るくらいしか余裕がない」ことの裏返しであると思う。そもそも、「忙」は心が亡くなると書く。仕事でいっぱいになっている人間に本を読む「心」の余裕など残っているはずもない。
しかし、それが私たちの望む社会のあり方なのか?と本書は問う。それは至極まっとうな問いだと思う。とはいえ、著者の提唱する半身社会への転換は、そのインセンティブがどこにあるのか?というところが今一つクリアになっておらず、難しいように感じてしまう。
個人的には、生産性の低い企業の存続そのものが非効率な長時間労働を助長しているので、そういった会社がさっさと倒産し、非効率な会社に束縛されていた個人がリスキリングをして新天地で活躍できるようにするのがよいと思う。しかし、このことは、そうした個人にとっては生活難に陥る不安を生じさせるために票が取れず、あるいは非効率な会社から組織票を得ている政治家が猛反対するので誰もやりたがらないだろう。
だが、一方で労働力不足は深刻化しており、円安のおかげで海外からの出稼ぎ労働者にとっても日本に魅力はないので、「非効率な長時間労働」などというのは許されざる「贅沢」になりつつあるのではあるまいか。「効率的な短時間労働」を実現しているA社と、依然として「非効率な長時間労働」をしているB社があったとして、給料が同じであれば労働者はA社選び、B社は人材不足に苦しむのが普通だろう。
つまり、労働力の希少性と労働力の流動性の掛け算が実現すると、自ずと無意味な長時間労働はなくならざるを得ない。この傾向が今後加速度的に進んでいくとすれば(現に進んでいるのだが)、「非効率な長時間労働」を維持している会社は、本当に働き手がいなくなりますよ!?
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