社会学

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ウェーバーとヴェーバー、2020年新書界の事件

2020年5月、中公新書から『マックス・ウェーバー  近代と格闘した思想家』、岩波新書から『マックス・ヴェーバー  主体的人間の悲喜劇』が出版された。2020年はヴェーバーの100回忌ということもあるが、ほとんど同じタイトルの新書が同時期に出版されるのは珍しい。何はともあれ、ヴェーバーに関心のある人間にとっては大変うれしい事件だ。 ちなみに、「ウェーバー」と「ヴェーバー」の違いは、Weberを英語読みにするか、ドイツ語読みにするか、という違いによる。
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仲正昌樹『マックス・ウェーバーを読む』――ウェーバーを読む格好の手引書

ウェーバーの主要な著作群を取り上げて、要点を引用しながら解説している好著。ウェーバーの著作(の翻訳)をいきなり読む前に読んでおくと、予備知識を得ることができるし、逆にウェーバーを先に読んでから本書を読むと、「そういう読みもあったか!」という発見もある。現代の事例も挙げながら解説してくれているのが理解の助けとなりありがたい。
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エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』を読む その3――創発としての社会

デュルケムの『社会学的方法の規準』(1895年)を読む試みです(第3回/全3回)。第四章 社会類型の構成にかんする諸規準 前章で述べられたように、ある社会的事実が正常か、病理的であるかは社会の種類、「社会種」によって異なる。では、社会種はどのように構成し、分類すればよいかというのが本章での課題となる。デュルケムによると、分類を行うことの意義は、次のようになる:
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エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』を読む その2――犯罪は「正常」な社会現象?

デュルケムの『社会学的方法の規準』(1895年)を読む試みです(第2回/全3回)。第三章 正常なものと病理的なものの区別にかんする諸規準 第三章は本書の肝だと思うので、少し詳しく取り上げる。実践の学としての社会学 ここまでデュルケムは社会学が科学としての性質を獲得できるように、社会学独自の研究対象とその観察における諸規準について述べてきたが、彼は社会学が単に社会的諸事実の観察や説明に留まるべきだとは考えていない。むしろ、社会学は「いかにあるか」という問題だけでなく、「いかにあるべきか」という問題をも探究できなければならない、と宣言している。
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エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』を読む その1――社会をモノのように扱う

デュルケムの『社会学的方法の規準』(1895年)を読む試みです(第1回/全3回)。 エミール・デュルケム(1858-1917)といえば『自殺論』が有名であるが、中公文庫で買ってまもなく字の大きな新装版が同文庫で出版されたショックで放置したまま、読んでいない。最近自分の中で社会学への関心が俄に高まり、社会学の始祖の一人として著名なデュルケムの方法論的アプローチを示した代表作として本書が読んでみたくなった。読んでからかなり経ってしまい、何が書いてあったか大分忘れてしまったが、社会的な現象をモノのようにして扱う、というテーゼと、犯罪は必要ですらあるという新奇なテーゼ、および、社会を科学的に探究するための方法論的考察への真摯な姿勢が印象に残っている。以下、復習。