戸田山和久『教養の書』本屋で衝動買い。まっとうな教養論

読書

この記事は2023年10月にサービスが終了した読書サイト『シミルボン』に投稿していた記事である。ボクの日記から推定すると、記事の公開は2020年4月頃。

本屋で見つけて衝動買い。まず装丁がウケる。高校時代に宣教師に声をかけられ受け取った『モルモン書』を思い出してしまった。「どうだ、出してやったぜ!」と言わんばかりのタイトルと“立派な”カバー。これはこの人にしか書けない本だ。

この本は特に大学新入生に向けて、教養とは何か、教養への道を妨げるものは何かを説き、オマケに教養を身につけるためのアドバイスを紹介している。私も大学入学時にこの本を手にすることができれば、もう少し賢明な大学4年間を送れたかもしれないと思うとつくづく残念だ。

著者は100ページも使って教養についてあれこれ議論し、それを踏まえて教養を10行で定義している(p.125)。長い分、抜かりない定義で、「教養」についてモヤモヤしていた点がスッキリするので、少しでも「教養」というものに興味のある方はここだけでも読んでみてほしい。しかし、定義に感心したところで教養は身につかない。いや、正確には「世の中には教養のある人とない人がいるのではなくて、この旅に出ようとする人とそうでない人の2種類がいる」(p.252)のであるから、教養とは何かについてしたり顔で語れたところで、教養の道を行く旅人でなければ意味がないのだ。

私自身はといえば、教養の道を這いつくばっていきたいと思っているが、これはなかなか生易しくない。まず真理を希求する態度を維持するのが容易ではないし、希求すること自体に相当のエネルギーと精神力を要し、おまけに「4つのイドラ」が待ち構えている。なお、シェイクスピアと同世代のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンといえばイドラ論で知られているが、著者はこのイドラ論について現代の知見を踏まえた解釈を打ち出している。個人的にはとても新鮮で本書の中でも一番の読みどころではないかと思う。

本書を読んでみて、「教養の書」という一見傲慢な印象さえ受ける本書のタイトルは決して誇大広告ではなく、まっとうに内容を表現していると思った。ただ、本書のもう一つのテーマとして、大学がどうあるべきか、大学生は何をする(べきな)のか、ということがあり、大学教員の書いた大学論としても読むことができる。その意味で、大学生や大学教員は一読の価値があると思う。

ただし、誤解してはならないのは、教養の道を歩むために大学に入って学位を取る必要は全くないということだ。教養の道を行くのに、エリートである必要はない。むしろ、教養の道を歩むことは、エリートになること/エリートであることを困難にする。エリートと教養を結びつけて「教養」という語に反発を覚える人、教養などという「ムダ」に手を伸ばさない「優秀な」エリートにこそ、本書を手に取ってほしいと思う。

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