ウェーバーとヴェーバー、2020年新書界の事件

読書

この記事は2023年10月にサービスが終了した読書サイト『シミルボン』に投稿していた記事である。ボクの日記によると、記事の公開は2020年9月20日。

2020年5月、中公新書から『マックス・ウェーバー  近代と格闘した思想家』、岩波新書から『マックス・ヴェーバー  主体的人間の悲喜劇』が出版された。2020年はヴェーバーの100回忌ということもあるが、ほとんど同じタイトルの新書が同時期に出版されるのは珍しい。何はともあれ、ヴェーバーに関心のある人間にとっては大変うれしい事件だ。

ちなみに、「ウェーバー」と「ヴェーバー」の違いは、Weberを英語読みにするか、ドイツ語読みにするか、という違いによる。「ワーグナー」か、「ヴァーグナー」か、というのと同じだが、「ヴァ」行の音はもともと日本語にないため、避けられる傾向にあるようだ。ドイツの自動車会社Volkswagenも、カタカナで「フォルクスワーゲン」と表記されているが、より忠実には「フォルクスヴァーゲン」だろうし、略称の「VW」にしても、誰しも「ブイ・ダブリュー」と読むだろうが、ドイツ語読みなら「ファオ・ヴェー」くらいになるだろう。それはさておき、私は個人的に原音により近い表記を採りたいので、基本的に「ヴェーバー」で表記を統一する。

私はまず中公のものから読み、それから岩波のものを読んだが、この順でよかったと思っている。読みやすく、ヴェーバーの全体像をとらえるのには中公のものの方が適当で、岩波の方はヴェーバーの人となりについて、一歩進んだ理解を与えてくれる。初心者には中公を推したいが、個人的には岩波のほうが印象深かった。

■野口雅弘(2020)『マックス・ウェーバー  近代と格闘した思想家』中公新書

ヴェーバーの重要著作やそこで提示された概念、他の思想家・文化人との類似や相違に言及しながら、その生涯を辿った好著。加えて、ヴェーバーとナチズムの関係や、日本でのヴェーバー受容についても言及されていて抜かりない。

「近代的な価値からの撤退」がいわれている時代状況だからこそ、かつて「ヨーロッパ近代」について考えたウェーバーという人とその受容について振り返って考えていみる必要があるのではないか。坂を下りきる前に、この坂の傾斜を見極めておかなければならない。(p.viii)

と著者は「はじめに」で本書の問題意識を提示している。ここから分かるように、本書は必ずしもヴェーバーその人を深く探究するのではなく、あくまで今日的な関心をもとに、考える材料としてヴェーバーを取り上げようとしている。このことが、本書のバランスの良さを生み、ヴェーバーその人について知ることにとどまらず、ヴェーバーを通して考えることを可能にしていると思う。その意味で、本書はヴェーバーその人に特段の関心のない人にもオススメの一冊だ。

■今野元(2020)『マックス・ヴェーバー  主体的人間の悲喜劇』岩波新書

本書は、このマックス・ヴェーバーの「人格形成物語」(Bildungsroman)を描く試みである。その狙いは、個別作品の鑑賞ではなく、それを生み出した文脈、つまりヴェーバーの生涯およびそれを取り巻く歴史的文脈の解明にある。(p.iii)

「はじめに」でこのように本書の狙いが述べられているが、その狙い通りの一冊になっている。ヴェーバーも「時代の子」であったことがよく分かるし、何よりヴェーバーの人間臭さがぷんぷん漂ってくるのだ。そして、なんとなくカッコイイという下心でヴェーバーに関心のある私にとってヴェーバーに対する認識を一変させるような、彼のネガティブな面も余さず白日の下にさらされている。もちろん、著者の意図はヴェーバーをこき下ろすことではなく、ヴェーバーの人格形成の物語を描いているのだが、そこで描かれるヴェーバーは「価値自由」を説いた自己抑制的なお偉い学者といったイメージと幾分隔たりがあるのだ。著者は「あとがき」でこう書いている:

ヴェーバーの主体性を語るならば、彼の傑出した文章構成力、難題を次々とこなす集中力、自分が見込んだ弱者に示す義侠心、尽きることのない好奇心、学会・大学運営への熱心な提言、官僚精神への抵抗を描くと同時に、彼の際限ない辛辣な他者攻撃、自分および自分側(プロテスタンティズム・ドイツ・西洋など)中心の状況認識、読み手への配慮を欠く悪筆・長大な段落・難解な文体、社会ダーウィン主義への傾倒、カリスマ的政治指導の夢想、自分の説いた道徳を貫けず自縄自縛・言行不一致に陥る様を語らなければならない。それらはジキル氏とハイド氏のような、一つの身体に宿る二つの人格なのではなく、一つの人格の二つの側面なのである。(pp.230-231)

ドイツの『マックス・ヴェーバー全集』に依拠して、彼の書簡なども駆使して書かれた本書を読んで、強い感情の持ち主で、エゴイズムと闘争心を隠さない迫力あるマックス・ヴェーバー像に、私は少なからず当惑した。率直に言って、ヴェーバーの思想を理解する上で彼の人格を理解することがどれほど役に立つのかは疑問だが、『プロ倫』などを読んでヴェーバーはどうしてこんなに読みにくいのだろうかと思った人には、間違いなく手に取る価値のある一冊だと思う:ヴェーバーの本が読みにくいのは、彼の性格からして、まあ仕方がないと諦めがつくからだ。

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